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YS3.6 焦らない

ヨーガ・スートラ第3章6節

तस्य भूमिषु विनियोगः॥६॥
tasya bhūmiṣu viniyogaḥ ॥6॥

サンヤマは、段階的になされるべきである。(2)

今回のスートラについて、インテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参照2。以下、インテグラル・ヨーガ)はは、一言も解説無し。それもそうよねと思うくらいには、今回のスートラは、とても明快です。では、他の解説書2つは、何について書いているか。


「段階的」に行う

「段階的」という点について、フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)は、対象の認識について荒い状態のところから始め、徐々に真実が明らかになるところへゆき、その理解を保持しながら、さらに細かい、さらに深い真実へと進んでいくのだといいます。そして、それがサンヤマの段階だと。


これ、何かを長く続けている方には、わりとスムーズに理解できる内容かなと思います。

何かを始めたときに、ああ自分はこれに興味があるなとざっくり思うわけです。そこから、こういうところが好きなんだなとか、これをしているときの自分がこうだからだなとか、好きの解像度があがっていく。そして、こういうところが好きな理由って、これがこういう風にできているからだなとか、なぜなら自分のこういうところをどうにかしないとと思っているんだなとか、始めたときに感じたことの、さらに深いところにある感情に出会う。サンヤマとは厳密には違うけれど、こういう解像度があがる経験、ありませんか。


しかしながら、です。そもそもの話ですが、ディアーナ(集中)、ダラーナ(集中)、サマーディ(三味)というこの八支則の最後の3つは、自然と起こるものだという説明がすでにありました。だから、その過程がより細かい深いところへ潜っていくことになるよという説明はありがたいですが、グル、もしくはヨガの先生が連れていくことはできず、ヨガを実践しているものが自分でたどり着かなければいけないうえに、コントロールができない領域の話。

なぜこのスートラで「段階的」にやりなさいよと、わたしたちにリマインドするのか。


段階的にやることの恩恵(仮)

わたしが想像できることは、焦るなということかなと。

先があるなら、先を知りたい。それは、向き合っている対象に対する情熱のひとつのかたちです。そして、その情熱を昇華したいと思ったときに、インターネットでいくらでも情報を検索できるし、現代を生きる私たちにとっては「十分に古い」と認識する時代に書かれた密教とその作法について書かれた書籍も多くあります。

でも、段階的にやりなさいよと、ヨーガ・スートラを編纂したパタンジャリは書くわけです。では、なぜ焦らないことが大事なのか。


わたしは、ヨガのインストラクター養成講座を7歳のときからアシュラムでヨガを学び、今ももちろん学び続けている先生から教わったので、講座中に彼が教わってきた小話を聞く機会があり、そのうちの一つに、こんな話がありました。

もともと呼吸法や、瞑想の方法は、グルから生徒の練習具合を見て、じゃあ君は今度はこれをやってみなさいと教わって初めて次の段階に進んでいたということ(←アシュタンガヨガのマイソールクラスみたいなことと想像します)。そしてその理由は、準備ができていないままに、次の方法を試すことは、とても危険なことだからということでした。

バラナシに行くと、呼吸をして生きているけれど意識がそこにない人に会うことがあるよと。詳細は割愛しますが、エネルギーをコントロールできないままに先を急いでしまったためにそういう状態になってしまったんだよと、続けていました。そして、そういうことは、なくはないだろうなと思います。


ヨーガ・スートラの第1章の後半でしつこくしつこくサマーディの段階について説明があり、またさらに現在の第3章でも似た内容を繰り返しているのは、ヨガの実践者が進んでいく道のマップをリマインドしているんだろうなと想像します。

マップがあれば、そして自分の状態を俯瞰できる程度にヨガの練習が充実しているならば、焦らずにいられるだろうと思います。いかがでしょうか。


そこにある距離

ハリーシャは、その集中の対象とひとつになるところをイメージするという方法が多く広まっているけれど、ヨーガ・スートラでパタンジャリが書いているのはそうではないよと何度も言います。彼は、現代を生きているヨーガ・スートラの研究者なので、現在ヨガが伝えられている方法のトレンドをふまえた解説をしてくれていて、それがとてもありがたく、これもシェアしておこうかと。


心は、対象に集中していく中で溶けて消えていくもので、そこに意識(awareness)、または本来の自分だと考えられているものが残る。そして、その意識も対象とひとつになることはないが、より近く親密な関係にまで近づいていくということです。

近付けるのは、「親密」なところまで。

未知の世界の話すぎるなというのが素直な感想ですが、その心と意識と集中の対象の関係を頭の隅に入れて置けたらなと思っています。パタンジャリが示すマップに、自分が必要そうだなと思う情報を付け加えておく。そうやって自分の中に据えるマップと仲良くなっていけたら、自身の練習に寄りそってくれる強い味方になりそうだと思いませんか。たまに見直しながら、修正しながら、そうやってヨガの練習を続けられたらいいなと思います。


サンヤマの話まだまだ続きます。また来週、と言いたいところですが、リトリートの準備で絶賛もろもろ滞っております。それでもとにかく、ここでお待ちしています。

※ 本記事の参考文献はこちらから



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