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YS 1.49 それは、そこにあるから

前回のスートラで、参考にしている3つの解説書が各々の言葉で紹介してくれた至上の知。それをもっと具体的に説明しているのが、今回のスートラです。
ヨガインストラクターのもえと申します。今週もよろしくお願いします。

※前回分は、こちら『YS 1.48 知が満ちる』をご覧ください。


ヨーガ・スートラ第1章49節

श्रुतानुमानप्रज्ञाभ्यामन्यविषया विशेषार्थत्वात्॥४९॥
śruta-anumāna-prajñā-abhyām-anya-viṣayā viśeṣa-arthatvāt ॥49॥
シュルターヌマーナ プランニャービャン アニヤヴィシャヤー ヴィシェーシャールタトヴァー

This knowledge is different from the knowledge acquired through testimony and inference because it has a special object.
この知識は証言や推測から得る知識とは違う。なぜなら、それは特別な対象を据えるからだ。



以前スートラ1.7 で、正しい知識と書いて〈正知〉についての記述があったのを覚えているでしょうか。ヨガが目指すのは、心の作用(心や感情の揺れ)が静かになった状態にあることでした。心の作用には5つあり、その1つめとして紹介されるのが正知でした。(心の作用は、それぞれを苦痛に満ちたものと苦痛なきものに更に分類することができる。(スートラ1.5)こともセットで思い出しておきたい。)

正知が発生するのは、①直接的な認識、②有効な共通認識、③信頼できる証言の3つでした。①直接的な認識とは、目で見る、耳で聞く、指で触れる、舌で味わう、鼻で嗅ぐなど、感覚器官に与えられた刺激を通して直接認識すること。②有効な共通認識とは、煙があったら火があることが分かるように、実際に五感で知覚しなくても推測できること。③信頼できる証言は、聖典やグルが教え伝えてきたこと。

しかし、フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)曰く、推測することは、認知できないものへの知識を保持する手助けにはなるが、推測や証言からの知識は、受け取り手にとって違った意味をもってしまう可能性がある。だから、対立が生じるのだと書いており、ヨーガ・スートラが正知を心の作用のひとつとしたのも、ここが理由だろうと思います。

しかし、ヨガの道を実現させた人を満たす至上の知は、違ってしまうことがない。今回のスートラで書かれた知は、そういうものだということです。


なぜ、推測や証言からの知識は、受け取り手によって違ってしまうのか。

インテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参照2。以下、インテグラル・ヨーガ)は、「その時が来るまでは、あなたが聞いたり読んだり思い描いたりしていることはすべて、あなた自身の心によってなされている。」と書いています。わたしたちは、何かが起こり、その事実を受け取るとき、わたしたち自身の中に蓄えられたカルマの残す影響や、車輪の轍(わだち)のように心に跡を残すサンスカーラから発生する精神的な投影を、知らないうちにしてしまいます。これが苦しみをもたらすというのが、ヨガのシステムで説明されること。

ここで心が活動するとき、各々のもつ、知識の認識力や、分別、判断によっても事実が翻訳されてしまう。だから、これまでグルや経典の大切さについても説かれてきましたが、その精度をもってしても、ここでいう高次の知を得るには、不足だといいます。

インテグラル・ヨーガは「〈神〉は心によって理解され得ない、なぜなら心とは事象であって、事象が事象より微妙なものを理解することは、到底できないから。」と続けます。心を伴わないではじめて理解される高次の知。ハリーシャ(参考3)は、ここでいう至上の知は、正知を究極でもっとも純化したバージョンだと表現していました。


この高次の知は、心を伴わないではじめて理解されるため、「それは沈黙の中でしか説かれ得ない」といいます。もう少し具体的に、インドリヤ(indriya)と呼ばれる外側の世界と接触する手段(わたしたちがこの身体と共にもつ道具)も働かないと書いているのが、フォーチャプターズ。インドリヤは、5つの感覚器官+5つの運動器官で構成されますが、歩くことや、手でつかむことを含むその運動器官にのひとつに、話すことも含まれます(参考14)。これが全部、働きをやめてしまう状態にあるということ。なぜならば、そういった全てを使って知ることが出来る対象ではないからだといいます。だから、これを実際に経験した者も言葉にすることができないということ。


では、それがどう伝わってきたかというと、実践・練習を続けることによって直接体験することが続いてきたことによって、というのがひとつだと思います。そして今回、インテグラル・ヨーガが『マーンドゥキァ・ウパニシャッド』から引用した「内なる知ならず、外なる知ならず、知そのものならず、無知ならず・・・・・・」というのもひとつ、と考えてもいいでしょうか。つまり、そのものを表しきれないならば、あれでもなくて、それでもない、と、否定によって表現しようと試みる。

この方法って、一見、消極的なようにも聞こえます。でも、そのためには、それが何であるかという仮定を、自分で立てる必要があるわけです。そして経過を観察し、精査することになる。推測しているだけでは決して本当に知ることはできないというのは、もはや耳にタコですが、実際に出来ることと言えば、それくらいなわけです。ならば、やらないでか。

フォーチャプターは、至上の知とは、古典的(classical)なものではなく、現実的(actual)なものであるといいます。パタンジャリが「ヨーガ・スートラ」をまとめたのが、西暦100年あたりと言われ、そこから語り継がれてきましたが、古くなっていくということはなく、それは現実としてそこにあり、それを見る視点を形成していく道筋にあるわけです。わたしたちが読んでいるのは、そういう本だということを、第1章の終わりが近くなって、思い出しておくのも必要だなと思います。


さてさて、今週もスートラを音読して終わりましょう。


さて、ヨーガ・スートラ第1章も残り2つ。また来週、お待ちしています。

※ 本記事の参考文献はこちらから



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