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YS 2.1 望むなら選ぼう、から始める

ヨガインストラクターのもえと申します。ヨーガ・スートラを、3種類の解説を読み比べながら1節ずつに光をあてる「ヨーガ・スートラを読みたい」は、今回から第2章に取り掛かります。どうぞよろしくお願いします。

※第1章は、こちらの「YS 1.1 さあ始めるよの合図」からどうぞ。


ヨーガ・スートラ第2章1節

तपःस्वाध्यायेश्वरप्रणिधानानि क्रियायोगः॥१॥
tapaḥ svādhyāy-eśvarapraṇidhānāni kriyā-yogaḥ ॥1॥

Tapas, swadhyaya and Ishwara pranidhana constitute kriya yoga. (1)
タパス、スヴァディアーヤ、イーシュヴァラ・プラニダーナがクリヤー・ヨガを構成する。

さて、用語がずらっと並んで始まる第2章。まずは、クリヤー・ヨガを構成するという、ひとつひとつを覗いていきたいと思います。


タパスとは

タパスという文字をそのまま読むと、「燃やすこと」という意味だそうです。では、何を燃やすのか。目の前で起きている出来事をそのまま受け取らず、今までの経験のフィルターを通してしまうことが苦しみの原因だよとヨガがいう、その自身をスルッとからめ取りにくるのの根っこにある種。それが、次から次へと苦しみを生みだすことのないよう、焼き払おうというわけです。

タパスという用語が苦行や禁欲と訳されることから、欲に負けず一心に打ち込むことで起こる自分の中の炎を、わたしは想像していました。インテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参照2。以下、インテグラル・ヨーガ)が、タパスとは浄化を助けるものとして苦痛を受け入れることと訳しているのも、そうだよねと読む。でも、ああ足りないなと思ってしまい、ある種のしんどさを生んでいました。

そんな風に考えていたので、自分を律するというのは、自身に罰を与えるのとは違うとハリーシャ(参考3)が明言していたことに、目からウロコが落ちました。むしろ、あたかも罰のように厳しくしすぎることで裏目に出ることもあるよと、注意を促します。

そうやって改めてタパスという言葉を見つめると、足りないな、しっかりしなくちゃと思った時に、行動の先に見据えているのは「完璧であること」であることが多いように思います。ヨガの目的がすり替わっているし、どんな経験であれそれは必要なプロセスなわけです。フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)は、タパスが本当のところ意味するのは、不完全さに光をあて、種を焼いていくプロセスのことだと書いています。

そうやって自身を純化させていくこと、それがこのスートラでパタンジャリが伝えたかったことだろうと、3つの解説書が口をそろえて書いています。タパスは、このあとまた登場するトピックですが、このスートラが燃やすために必要な苦行や禁欲というよりも、もう少し引いた視点で視点で見つめているようです。


スヴァディアーヤとは

聖典や経典を読むことと理解されることが多いスヴァディアーヤですが、これが面白いなと思うのは、そういった文章から「知識」を学ぶことを目的にしていないようなのです。

「聖典を完全に理解するのは、われわれ自身が預言者となったときでしかない。」し、そもそも「あなたが私を完全に理解したかったら、あなたは私にならねばならない。」と、インテグラル・ヨーガは書いています。それはつまり、わたしが理解できるのは、わたしだけだということ。

まさにそこが目的のようです。だから、繰り返し読むことによって集中し、心や感情が静かになった状態をつくることが大事であり、その状態にありながら、違った視点から自分を観察することを目指す。だから、このスートラでいうスヴァディアーヤは、実のところ、自分を観察していく作業のことを意味しているようです。


イーシュヴァラ・プラニダーナ

イーシュヴァラ・プラニダーナは、至高の存在にゆだねること。自分の行動を捧げること。そんな風に語られることの多い言葉です。そんなに献身的に生きられるだろうかと思わずにいられませんが、インテグラル・ヨーガが書いている「”私のもの”は縛り、”あなたのもの”は自由にする」というのは、それもそうだなと思えるし、「あなたは与えたものを決して失わない」という文章には、ハッとしました。

第1章で散々語ったイーシュヴァラです。ヨガって宗教ではないはずなのに至高の存在、というか神さまの話?と思った方は、ぜひ「YS 1.23 まずはそれが在ると知ること」を。そもそもイーシュヴァラって何者?と思った方は「YS 1.24 とにかく経験ですという話だけれど」を。

そして、これらの一連の流れの中で、イーシュヴァラとは自身に内包している存在であると示唆されていたわけです。だから捧げたと思っていても、結局自分に返ってくる道筋がそこにあるんだよと、ヨガはいうわけです。だから、このスートラで紹介されたイーシュヴァラ・プラニダーナという行動は、実は自分に向かっていく、まるで自身を進化させていく作業のことのようだと読むことが出来ます。


クリヤー・ヨガとは

ここまで見てきたタパス・スヴァディアーヤ・イーシュヴァラ プラニダーナの3つは、自身を純化する・観察する・進化させていくという作業のことでした。サンスクリット語の用語が並ぶ今回のスートラですが、実のところ、自身の行動指針について書かれていたのでした。

それって、とても実用的だと思うんです。必要なことは、ここにある自分だから、望むならば、いま始められる。このことは、フォーチャプターズは実践的なヨガ、ハリーシャは行動によって実現するヨガであると、それぞれクリヤー・ヨガを訳していることから分かります。そして、第1章がサマーディ・パダ(三味部門)だったのに対し、第2章はサーダナ・パダ(実習部門)とタイトルがついています。つまり、第2章は、より実践・実習に特化したヨガの話をしようというわけです。

興味深いけれど、雲をつかむような話でもあった第1章より、もう少し手が届くことが書かれているようです。だからこそ、この始まりのスートラで、それを望むかを問われているようにも思います。第1章が「さあ始めるよ」と手を引かれてスタートしたのと比べると、「どうするの?」と、少しのぞき込まれているようでもある。

もっとヨガを知りたい、ヨガと仲良くしたいと思うので、私は望んで選びたいと思います。一緒に読み進めてくれる同志がいますように。さあ、第2章の開幕です。


※第1章では、スートラの音声をつけていたのですが、インドに戻れないため録音ができていません。また戻ったときに付け足すつもりでおりますので、気長にお待ちください。

※ 本記事の参考文献はこちらから







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