見出し画像

YS 1.43 でもまだ途中

スートラ1.17 でサマーディをすでに1度分解していましたが、第1章の締めに、もっと細かく段階をみていきます。今回はパート2。理解が難しいけれど、わたしが参考にした解説書たちが、知っといた方がいいよと饒舌に語るので、ぜひのんびり読んでいってください。
ヨガインストラクターのもえと申します。今週もどうぞよしなに。

※前回分は、こちら『YS 1.42 そこにとどまり続ける』をご覧ください。


ヨーガ・スートラ第1章43節

स्मृतिपरिशुद्धौ स्वरूपशून्येवार्थमात्रनिर्भासा निर्वितर्का॥४३॥
smr̥ti-pariśuddhau svarūpa-śūnyeva-arthamātra-nirbhāsā nirvitarkā ॥43॥
スムルティ パリシュッダウ スヴァルーパ シューニェーヴァールタマートラ ニルバーサー ニルヴィタルカー

`Nondiscursive absorption` occurs when memory is purified, [the act of] absorption is empty of its own nature [as cognition], [and] the object alone shines forth. (3)
ニルヴィタルカ・サマーディ、または ”散漫でない吸収” は、記憶が純化され、吸収する過程でが認識するものとしての性質を失い、対象のみが輝くときに起こる。


前回のスートラで紹介されたサヴィタルカ・サマーディでは、瞑想の対象としたものの名前、かたち、それのもつ意味を別々のこととして認識することができる状態でした。今回紹介しているニルヴィタルカ・サマーディは、そういった対象を形容するものが全てなくなった状態。そしてその時に、対象が輝く。簡単にまとめると、こんな感じ。


まず、それが起こるのは記憶が純化された時だというところ。ここでいう〈記憶〉というのは、ヨガが目指す心の平静を邪魔するさまざまな作用のひとつとして、すでにスートラ1.11 で紹介されていました。覚えているでしょうか。サンスクリット語でスムルティ(smr̥tiḥ)。

2つめのサマーディまでたどりついたのに、まだ作用に揺らぶられているっていうこと?と思いますが、どうやらその側面もありそうです。

ハリーシャ(参考3)が紹介してくれた解説書には、従来のことばの意味や、聞いたこと、推測したことなどから得られる認知に基づくこころの構造から、こころを純化するのだと書かれていたそうです。これ、よく読むと、サヴィタルカ・サマーディでやっとこ区別できるようになった対象の名前、かたち、意味も、同じことですよね。それをバサッと脱ぎ捨てて、まっさらになった状態、純化した状態を経過するということのようです。

今回のスートラでは、過去の印象がはめこまれていようが、それがスッキリなくなろうが、そこに記憶は残るんだと、フォーチャプターズ オブ フリーダム(参考1。以下、フォーチャプターズ)は解説しています。記憶は、自由で独立した存在になりえるし、そのなった状態が、記憶が純化した状態だということ。

まあそもそも、スートラ1.5 で紹介したように、心の作用には、苦痛に満ちたものであるときと、苦痛なきものであるときがあるわけです。つまり、いつも害が在るわけではない。そして、記憶そのものが悪いのではなくて、事実を無視するほどに書き換えてしまいやすい〈記憶〉の性質が問題だと言っているわけです。このフラットな視点を、もう一度リマインドしてくれるのは、ありがたい。


じゃあ、いろいろバサッと脱ぎ捨ててどうなるの? という疑問の答えは、またまたフォーチャプターズです(今回とてもとても饒舌なんです)。水に塩を入れて完全に溶かしたとき、その2つを分けることってできませんよね。それと同様に、瞑想の対象に据えたものが、こころ全体にに溶け込むのだそうです。な、なるほど? と思うところですが、例えのおかげで、少し想像しやすくなるかなあと思いました。どうでしょうか。


そして、すべてが混ざり合った時に、対象そのものが光ると。おお。

インテグラル・ヨーガ[パタンジャリのヨーガ・スートラ](参照2。以下、インテグラル・ヨーガ)の訳だと、サヴィタルカ・サマーディで区別する3つを、名前、かたち、知の3つとして、ニルヴィタルカ・サマーディではこの3つ目の知が輝くように読めてしまいますが、フォーチャプターズでは別のものだと書いています。前者は対象についての知識(the knowledge of the object)で、後者は「真実を明かす知識(the knowledge)」または、覚醒している状態と、明確に分けて書いていました。

フォーチャプターズ曰く:対象が消え、その後ろに明るい光が見える。真の知識が姿を現す。じぶんの外側と内側の境界が完全に消滅する。主観性が消えるが、記憶とこころが癒着していないので、こころは確固たる状態である。これって、アリはゾウが見れなくて、見るためには大きくならなくてはならないように、普段のこころの状態ではこの状態を理解できないし、この状態から戻ってきても覚えておくことはできないと書いています。

そしてハリーシャ曰く、この状態から戻ってきた人の多くは、世界が違ってみえるというんだそうです。もっと生命力にあふれ、リアルな世界が、そこに在る、と思うんだとか。


すごいなと思いつつ、いやわたし、そこにたどり着く矜恃があるかねと、ふと考えます。サルヴィタルカ・サマーディって、いくつかあるサマーディの順番でいうと2つめで、まだ続きがある。でも、第2章で出てくるヨガの目指すところへの階段である八支則の最後のサマーディというのは、パタンジャリ(ヨーガ・スートラの編集者)はこのことを指しているのではないかと、ハリーシャは言います。だから、ここが一旦のゴールかもしれない。

それを、自分でゴールを決めていい自由があるんだなと読むのは、お気楽すぎでしょうか。でも頑張りたいようにしか頑張れないよなあと思うので、受け取り、決めて、ヨガしよう。


前回のスートラで、インテグラル・ヨーガが、サヴィタルカ・サマーディは有尋三昧という漢字の名前がついていることを紹介していました。ちなみに今回のニルヴィタルカ・サマーディは、無尋三味だそうです。前者は、対象の名前、かたち、意味と区別することで混乱や議論、つまり尋ねることがあるということのようです。そして、後者は、そこに知が輝くわけで、尋ねることはもう無いよということなんですね。漢字、ありがたいなー。


では、あたまが疲れたときほど、サンスクリット語の音を身体の中で響かせておきましょう。ぜひ音読してみてくださいね。


ヨガをしている限り、練習が進む先は、意識していようがいなかろうが、サマーディへの道を進んでいるわけです。そして、いろいろなサマーディは、その道にぽつぽつ置かれているわけです。小さいころに地図帳を見て、へー世界ってこんな風なんだね~と思ったような気持ちで、読み進めていきたいなと思います。まだまだ続く、いろいろなサマーディの話。次回のスートラは、こちらから⇩

※ 本記事の参考文献はこちらから



励みになります。ありがとうございますー!