見出し画像

芸術(音楽)の評価ということ

音楽鑑賞教育という雑誌に入野義朗が寄稿した文章を転載します。
今でも通じるものがあるのではないでしょう

音楽鑑賞教育1977年10月号 p12-p16
「芸術(音楽)の評価ということ」入野義朗

 ある事柄や物事を評価するという活動は人間の精神活動の中でも基本的なものの一つであろうと思われます。例えば品詞の分類でいえば、形容詞と副詞というものはこの評価活動をあらわしたものだ、という事ができると思うのです。このように我々は何かに直面した時に、殆んど必ず評価を行います。「今日の食事は何を食べたいか」「これから何をしようか」といった時に、いくつかの撰択肢の中からえらぶことになりますが、その場合に最も高い評価を与えたものをえらぶ、という事になるわけです。

ただし、そうした評価を行うにはやはり基準が存在しているのであり、その基準はその人、環境、状態などにとって合目的的である筈です。どんなに甘いものが好きな人でも、いつでもどこでも必ず甘いものであればよい、という事はないでしょう。その時の状況に応じた撰択ということが即ち適確な評価ということになってくるのです。

さて、以上のような大まかな前提をした上で、音楽鑑賞教育における評価の問題を考えてみたいと思いま す。先ず言いたい事は今のべたように評価の前提には基準がいると思うのですが、何が基準となったらよいか、という事です。簡単な例をあげてみるならば、例えば演奏のコンクールでは、一晩のリサイタルを開けるだけの力があるかどうか、といった事を基準にする場合もあるでしょうし、もっと単純に課題曲をどれ位正しくひけるか、という事が基準になるかも知れません。

 ところが音楽鑑賞について考えてみると、そうした基準を設ける事が非常にむずかしいだけでなく、ある点では無意味であり、そのやり方によっては害を及ぼすおそれもある点が注意すべきことであろうと思われるのです。最近はレコードの解説やラジオでの曲の紹介などが数多く行われており、これらもいわば鑑賞教育の一つの分野になっているのですが、それらの中にもかなり一面的で聴く人の鑑賞的精神活動を却って妨げるのではないか、と思われるものが多い事が気になります。しかしそれらは一応きく人達が大人である事を想定し、自主性を信ずればまだ実際の害は少ないといえるかも知れません。

 我々が最も慎重であらねばならないのは、小、中学校といった場での鑑賞教育と、その中での評価の問題です。こうした場での対象者、つまり、小、中学生は義務教育として、いわば全く無防備な立場でいるわけであり、しかもそこに将来の基礎がかかっているのですから、慎重すぎてこまる、という事はない筈です。

 そこでどういう点を基準において考えるべきか、というと、私は先ず感受性をひろげ、鋭敏にしてゆく、という事を第一の目標と考えたいのです。現在の教育の中でこの点がなおざりにされているとは私は思いませんが、先程ものべた「やり方によっては」という事に関して一言のべるならば、その感受性をあまりに一面的にだけ育てるおそれを感じるのです。端的にいえ ば18〜19世紀の中央ヨーロッパ音楽の考え方、その方向への感受性のみが強調されすぎていることへの危惧です。もちろん、バッハ、モーツァルト、ベートーベ ンといった人達がすぐれた音楽を残した事を否定することはできませんし、それらは現在までの人類文化の一つの記念碑にはちがいありません。しかしそれらが他のものを排除するような形で導入されることはやはり我々の感受性の大きな部分を損なう事になるわけで す。それらが本当に人類文化として普遍的な価値を持っているならば、それらを理解する感受性を育てる事は、人類のすべての文化を理解し感じとる感受性をひらく事につながって行かなくてはならない筈です。

 逆の事は最近、音楽教育にとり入れられつつある日本の伝統音楽や、アジア諸国の伝統音楽についてもいえます。今までのヨーロッパ音楽一辺倒の時代にくらべると、そうした他の要素に目を向けるようになったのは非常によい事ですし、特に自分たちの国やそのま わりの近い所からはじめるという気持は当然でもありまた大切な事です。しかしこれもまた他を排除するという形で行われると危険な事になります。我々が明治以来ヨーロッパの文化を知り、それを受け入れてきたのと同様に、ヨーロッパの人達にも我々の文化を知り、受け入れてもらう必要がありますが、そこまで大げさな話にはしないとしても、子供達がそうしたいろいろな文化の多様性についての感受性を豊かに持ちうる様な鑑賞教育が我々の目標基準として設定されるべきであろうと考えます。

 以上のように考えてきましたが、これだけでは、まだあまりにも漠然としているとお考えだろうと思いま す。つまり、ただいろいろなものをきいて面白がっていればよいのだ、という風にも考えられるからです。もちろん、ある部分にはそういう要素もはいっている事は確かです。一時代前の多くの意見のように、ベ ートーベンやブラームスは素晴らしい芸術だが、日本 の三味線音楽は未発達で低俗な音楽だ、といったような偏った考え方にくらべれば、様々な音楽を楽しむという態度だけをとっても、どれ位我々の精神生活を豊かにするかわかりません。しかしそれも今すこしふれたように、ただ何となくかわっていて面白い、というだけであれば、いわば観光客が珍しいものをのぞいて歩く、という感じとなってしまい、それが我々の精神生活や感受性を豊かにするという風にはならない事になります。我々が様々な、今まで知らなかったような芸術に接する喜びは、それによって我々の中に眠っていた感受性をよびさましてゆくことにあるはずです。

 先程から度々のべている事ですが、そういう新しい可能性をひらいてゆくことが鑑賞教育の目標であってそれを一部でも抑圧するような方向に行くとすれば、それは邪道である、といわなくてはなりません。

 ここで、もう一つ気をつけなくてはいけないことは評価する側の人間、普通にいえば教師ということになりますが、その評価する人間の感受性が完全なものではありえないという点です。つまり、評価する側が自分が現在持っている感受性だけを絶対のものとして評価してゆくならば、必ずそこに新しい可能性を見落としてゆくおそれが生まれる、という事です。

 鑑賞という言葉とは少しはなれるかも知れませんが我々作曲をする人間にとって、新しい作品をきく場合に以上のようなことを感じることがよくあります。つまり、全く新しいアイディアによって作られた作品は往々にして理解されず、それどころか非難される、という場合が多い事です。これはきく側の人間が自分達の従来持っている感じ方だけを基準として評価するために生ずる間違いです。そして何回か聞かされている中に、そういう新しいアイディアに対する感受性が開かれて来て段々とうけ入れられるようになるわけで す。それがごく単純な理由による場合も多い事は歴史の教える所です。ベートーベンの「エロイカ」交響曲は長すぎる、という事だけではじめは不評判でしたし、 セザール・フランクの交響曲がイングリッシュ・ホルンを使ったという事で悪口をいわれたりした事はそうした例です。現在の我々はそういう例を音楽史上のエピソードとして聞いていますが、その我々自身も似たような事をしてはいないでしょうか。それは大いにありうる事だと考えなければなりません。

 また、そういった誤った判断への誘導は、今あげたような非難への方向だけでなく、賞讃の場合にもありうる事をやはり気をつけなくてはいけません。モーツァルトやシューベルトが音楽史上稀に見る天才である 事は一つの事実ではありますが、彼等の音楽がすべて文句なしにすばらしい音楽であり、誰がきいてもすぐれた音楽にきこえる筈だ、ときめてしまう事は危険です。どうしてもそうした音楽を好きになれない人も有り得ますし、そうした人を非音楽的だ、ときめつけてしまう事はまたよくない事です。

 また、いわゆる名曲がきらいである、とまではいわないとしても、人によって興味を持つ点、よいと思う特徴はそれぞれに異なっている筈です。ベートーベン の曲にしても、主題の動きそのものが好きな人、主題の展開のやり方に感心する人、楽器の使い方がよいと思う人など、そこには様々なうけとり方が存在しますし、同じ一人の人でも時により、年令により、またその経験の積み重ね方によって変わってくるものです。 こういった点からも、ある評価の仕方というものを固定して、それによって決定してゆくことが危険であ 事はいえると思うのです。そろそろ結論めいた事をいわねばなりませんが、大体次のように考えて頂ければよいのではないか、と思っています。

 つまり、評価する側といっても神様ではないのですから、あらゆる感じ方を見通しながら評価できるわけではない事は当然です。従って先程もいったように、自分の鑑賞の仕方だけが存在するのだ、という意識は非常に危険だ、という事です。これは人間同志の信頼感にもつながる、と思うのですが、また特に感受性という面についていえば、子供達にはまだすりへっていない豊かな泉が充分に存在している事を信じて、それを涸らしてゆかない事が大切な事だ、と思います。ある方向をきめてその方に引っ張って行くのではなく、成長を見守り、助けてゆくという事です。但しそのためには余計な枝を切ったり、雑草を除いたり、という作業は必要ですが、それでは何が雑草か、という問題はまた多くの紙面を必要としますので、次の機会が与えられればのベたいと考えています。

(作曲家)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?