28歳のミャンマーへの旅が人生を変えた。作業療法士・鈴木さんが、ミャンマーの将来に期待し続ける理由
海外での生活、旅への憧れを募らせる今だからこそ、旅で出会った国や地域にすっかり魅了された日本人のライフストーリーを聞いてみませんか。海外にゆかりのある方々のコロナ禍の現在の心情、今後の活動への思いを共有するインタビュー第1回目として、作業療法士・鈴木さんのミャンマーへの情熱について、お話を伺いました。
鈴木さんのプロフィール
出版社勤務を経て、現在は作業療法士として地域医療の現場で勤務する。NPO法人ReCA (※1) のミャンマー事業リーダーを務め、高齢者を対象としたリハビリテーションの普及活動に携わる。パックパッカー旅で訪れたミャンマーに惚れ込み、現在は日本でミャンマーへの支援活動を行う。
聞き手(筆者) Tomoe
管理栄養士として病院勤務、青年海外協力隊経験を経て、現在は留学生事業に携わる。NPO法人ReCA (※1) の栄養士として、2019年2月に初めて訪れたミャンマー・ヤンゴンで、鈴木さんに出会う。現在、SHElikes (※2) でWebライティングを学び、会社員ライターを目指す。
※1 NPO法人Rehab-Care for ASIA (ReCA)
※2 SHElikes(シーライクス) | 女性のためのキャリアスクール
1.バックパッカー旅でたどり着いたミャンマーに惚れ込む
Tomoe:鈴木さんのミャンマーとの出会いは、何だったのでしょうか?
鈴木:28歳頃、勤めていた出版社を辞め、半年間かけて東南アジアでバックパッカー旅をしました。出版社の仕事はハードで、体調を崩して仕事を辞めてしまいました。辞めて何ヵ月かしたら、すごく旅行に行きたくなっていました。
沢木耕太郎さんの著書「深夜特急」を読んでいたので、ユーラシア大陸を横断してみたかったんです。香港から中国に入り、雲南省、ベトナム、カンボジア、ラオス、タイを経て、最後にミャンマーにたどり着いて満足してしまったので、帰国しました。
Tomoe:元々バックパッカー旅が好きだったのでしょうか?
鈴木:以前は、旅行にも東南アジアにもあまり関心がなかったんです。「旅行人」という雑誌で連載していた漫画家のグレゴリ青山さんが、勤務していた出版社で発刊している月刊誌でも連載を始めることになり、「バックパッカー旅」について初めて知りました。団体旅行ではなく個人で東南アジアを旅行したり、歩いて国境を越えたり、こういう世界があるんだなと。
グレゴリ青山さんの旅行漫画を読んでいるうちに、私も旅がしたくなって。彼女の描く漫画に、よくミャンマーが出てきますが、独自の文化があって、面白そうだなと思いました。実際にミャンマーに行ったら、何だかすごく惹かれたことを覚えています。
Tomoe:鈴木さんが惚れ込んだミャンマーの魅力は、何だったのでしょうか?
鈴木:ミャンマーを訪ねて、現地の人に出会い、「人柄の良さ」を感じました。家に招いてくれたり、私を他のミャンマー人に紹介してくれたり。本当に優しくて。仏教国で親近感があって、日本人にとって感情移入しやすいこともあると思います。
さらに、ミャンマーの文化の厚みに魅力を感じました。読書が好きな国民性だと思いました。今でも覚えているのは、ミャンマーの第2の都市・マンダレーの夜市(夜の市場)で見た光景です。当時、軍事政権下でよく停電していたのですが、暗闇の中、裸電球の灯りを頼りに、たくさんの大人たちが座り込んで、露店で売られていた本や雑誌を読んでいました。
他の東南アジアの国で、夜店に本が並んでいるのはあまり見たことがなかったので、驚きました。後から知ったことですが、ミャンマーは詩や小説などの文芸が盛んで、有名な作家も多いです。
2.“あえて” 自分の得意ではない人と接する仕事を選んだ
Tomoe:バックパッカー旅から帰国後、リハビリテーションに関わる作業療法士を選んだきっかけは何ですか?
鈴木:旅をしながら今後について考えていた時に、「世の中の流れに左右されない普遍的な仕事で、ニーズがあって、世界のどこにいてもできる仕事」が良いなと思いました。まず思い浮かんだのは、医療職または自動車整備士でした。世界のどこにいても、身体や車の構造は一緒ですし、変わらないニーズがあるかなと。
母が介護の仕事をしていた影響もあり、医療・福祉の仕事の中でもリハビリに関心を持ちました。実際に、介護の現場や資格取得できる学校に見学に行き、作業療法士が良いかなと思いました。自動車整備士も候補に含めていたのは、モノ作りが好きで、バイクも好きだったからです。
人と向き合う仕事と、物と向き合う仕事のどちらがいいだろうと考えた時に、私はどちらかというと、人と接するのが得意ではなかったんです。だから “あえて” 得意ではない、人と接する仕事である作業療法士を選びました。人と接しない仕事を選んだら自分がダメになってしまう気がして。
Tomoe:ご自身の中でバランスを取っていらっしゃって、素晴らしいです。旅から帰ってきた後、作業療法士の資格を取るために勉強されたのですね。
鈴木:高田馬場にある作業療法士を養成する専門学校を実際に見に行った時、ここの夜間部の学校に通えば、リハビリの勉強をしながらミャンマーにも関われると思いました。当時から高田馬場にミャンマー人が多く住んでいることを知っていたんです。
平日の昼間は仕事、夜にリハビリの勉強をしながら、土曜日は高田馬場のミャンマー語教室に通いました。日曜日には、在日ミャンマー人にボランティアで日本語を教えていました。専門学校に通学していた4年の間に、「将来ミャンマーでリハビリに関わりたい」と思うようになりました。
日本の介護の現場で作業療法士として仕事を続けながら、2020年からNPO法人ReCAに加入し、ミャンマーのリハビリテーション指導や普及に携わることになりました。
3.2021年2月クーデター発生時、何が起きているか全然わからない恐怖
Tomoe:ミャンマーでは、国軍と民主主義政党との間で、長きにわたり政治的対立が続いています。2021年2月にミャンマー国軍が民主政権の中心的幹部を拘束し、全権を掌握するというクーデターを起こしました。
鈴木さんは、2020年12月末から数カ月の間、短期のプロジェクトでミャンマー・ヤンゴンに滞在し、現地のクリニックでリハビリテーションに携わっていました。クーデターに遭遇した際に感じた思いについて、お話いただけますでしょうか?
鈴木:クーデターが発生した日の朝のことはよく覚えています。職場の同僚から連絡が入って、「クーデターが起きたから仕事に行くな」と言われました。自宅の前にある市場に行ったら、人々が米や油をたくさん買い込んでいました。
早朝から携帯電話が使えなくなり、朝9時ごろからインターネットもつながらなくなりました。何が起きているか全然わからなかったです。午後3時頃にテレビ放送が再開した時、国軍と国営放送の2つのチャンネルしか映らなくなっていて、しかもどちらも同じ内容を流してたんです。
2月7日に全国的にデモが始まって、同月9日にネピドーで20歳の女性が狙撃されて、19日に亡くなりました。国軍がヤンゴンのインセイン刑務所の囚人を解放した後、急激に治安が悪化して、多くの不審者が現れました。そんなことは日本では絶対に起こらないし、すごく怖くて、異常だなと思いました。市民にとって警察は敵で、自分の身の安全を自分で守るしかなくなっていました。街では自警団ができていました。
Tomoe:鈴木さんご自身も、メンタルを保つことが大変だったのではとお察しします。
鈴木:常に興奮状態でした。昼間はデモ、夜は不審者が現れるから、休まらないんですよ。状況は悪化する一方でした。
Tomoe:長い間ミャンマーに関わってこられたからこそ、ショックですよね。
鈴木:ミャンマーで介護の技能実習生の仕事に携わることになり、前の職場を辞めたんです。コロナ禍になり、さらにクーデターが起きて、全部なくなってしまった状況です。現在も多くのミャンマー人が、民主主義を取り戻すための運動として、CDM (市民的不服従運動、Civil Disobedience Movementの略)をはじめとするさまざまな活動を続けています。
4.ミャンマーで経験した出来事や悔しさを忘れたくない
Tomoe:鈴木さんは現在日本に帰国されていますが、最近の活動についてお話しいただけますか?
鈴木:昼間は訪問看護ステーションで作業療法士の仕事をして、平日の夜や休日に、ミャンマー人に日本語や介護を教えています。ミャンマーでは約2年間学校が閉鎖されたままなので、少しでも現地の子どもたちの勉強をサポートしたいと考えています。子どもたちは時間を無駄にしたくないという思いで独自に勉強をしています。
現地の先生はCDMを続けていて、軍の下で公務員として働くことを拒否しています。学校に出勤しない先生たちはそれでも何とか子どもたちに教育をしたいという思いがあって。私はオンラインで現地の先生とつながり、日本語を教えるボランティア活動をしています。それによって、CDMを続ける先生たちへの貢献にもなると思っています。
Tomoe:鈴木さんが、ミャンマー支援を目的とした募金活動やデモへ積極的に参加されている様子をSNS等で拝見しますが、その思いについてお伺いしたいです。
鈴木:元々政治には関わりたくないと思ってましたし、今でもその気持ちは変わらなくて。どちらかというと自分のために募金活動を手伝っているように感じます。人間って辛いことがあっても、時間が経てば忘れてしまうものですが、ミャンマーで2月に経験した理不尽な出来事や悔しさを絶対に忘れたくないから参加しています。デモや募金活動に参加していると、ミャンマーにいるときに感じた「人の優しさや、助け合いの気持ち」を思い出すことがあります。
5.ミャンマーの将来に対する期待を語りたい
Tomoe:最後に、鈴木さんの今後の展望について伺いたいです。
鈴木:今は現地に行って何かすることはできないので、日本でできることを考えています。介護職の在日ミャンマー人に関わり、キャリアアップをサポートしたり、仕事や生活で困っていることを助けたいです。NPO法人ReCA の今後のミャンマー事業の展開についても考えています。
日本で介護に携わるミャンマーの人たちは「独立心」がある人が多いと感じています。訪問看護の仕事を通じて知り合ったミャンマー人で、介護福祉士を目指している友人がいるのですが、彼女の試験勉強のお手伝いをしています。ミャンマーの将来についてよく話すのですが、こんなビジネスをしたいとか、いろいろなアイデアについても話しますね。私には、ミャンマーに関わる未来しか想像できないんです。
編集後記
筆者が初めてミャンマー・ヤンゴンを訪れた2019年2月に、現地で鈴木さんにお会いした時の印象を今でも覚えています。現地の民族衣装であるロンジーをまとい、日本人とは思えぬ流暢なミャンマー語で現地の人と関わる姿に感銘を受け、当時からミャンマーへの人並みならぬ熱量を感じました。情熱の背景にある思いやご経験を是非伺いたいと思っていました。
鈴木さんへのインタビュー取材を通じて、キャリアチェンジにおいて、自分の適性や世の中のニーズに向き合ってこられたバランス感覚や、旅の経験から得た現地の文化や価値観の違いを楽しめる、適応力と行動力の大きさをあらためて感じました。
「海外に行きたい!行動したい!でもコロナ禍で動けない」、そんなフラストレーションを抱える若い読者の情熱や行動力を応援するサポーターになりたいと筆者は考えています。20代後半から30代にかけて感じていた鈴木さんの思いやライフストーリーが、人生を変える旅の一歩を踏み出すきっかけとなれば嬉しいです。
※SHElikesライターコースの卒業制作をリライトした内容です。
(2022年1月にコース修了)
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