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どうして、子供を欲しいって思うの?って、思うかの話。


こんなツイートが話題になっていて、「子を産む」ということについて改めて考えてみた。
人間にとって、生き物にとって、「子を産む」「子供が欲しい」ことは当たり前なことなのだろうか。
わたしは、そういう気持ちだけが当たり前なことではないと思っている。
このツイートのような疑問が湧くことだって、当たり前の感情だ。

この話題に対して、なんて嫌味なんだ!って思った人も、共感した人も、読んでくれたら嬉しく思う。

生き物の本能VS人間の社会性

生き物は、子孫を残さなければ自分の種族が絶滅してしまう。
先のツイートへの返信でもいくつか見られたが、「種の保存」という観点から見ると、子供が欲しいということ、子供を産み育てるということは、考えるまでもなく当たり前なことなのかもしれない。

もしも人間の子孫がどんどん減っていけば、産業も経済も衰退していくだろうし、もしそれがわたしの生きている間に起きたら大変だ。
人口の大半は後期高齢者、働ける世代の人たちはほとんどいないとなったら、きっとものすごく大変だし、幸せな最期は迎えられないかもしれない。
医療従事者も介護福祉士も葬儀屋もものすごく減ってしまったら、そういう人たちに丁寧に看取ってもらったり、綺麗に送り出してもらったりするのはごく一部の限られた人、きっとお金をものすごく持っている人だけになるだろう。
運が良ければ土葬くらいしてもらえるかもしれないが、その辺でのたれ死んでひからびてしまうみたいなことになりかねない。
なので、子を産み育ててくれている人にはとても感謝しなければならない。

電車で泣いてる赤子を黙らせろという嫌味な人とか。
ベビーカー相手にエレベーターを譲らない健康な人たちとか。
虐待してしまった親に誹謗中傷を浴びせる大衆とか。

そんなことをしている場合ではない。
みんな赤子には頭を下げ親にはおしめや粉ミルクのひとつでもお納めすべきだし、親が子育てギブアップとなる前にサポートすべきだし、親が子を手放すとなったなら、代わりに社会や他の人が育てていけば良いだけなのでは?と、思っている。
種族の繁栄、そしてわたしたちの未来の生活に、とても大きな貢献をしてくれているのだから。
子供は宝だ。

一方で、人間は社会生活を営む生き物でもある。
様々な情報を、誰とでも共有できる社会を作り上げた結果、出産や育児についても多くの情報にアクセスできるようになった。
ネガティブな情報にも。

妊娠・出産にまつわるマイナートラブルや、怖い・痛々しい出来事。
子を成人させるまでに必要なお金。
虐待とは?毒親とは?
養育者に不寛容な職場環境や上司。
育児による夫婦関係の変化。
心身に障害があったら?難病を患って生まれてきたら?
子が不登校やニートになったら?

今わたしが思いつく限りでも、出産や育児にまつわるネガティブな体験談やリスク、行き届いていない教育・福祉サービスがこれだけが挙げられる。
もちろん、少しずつ子育てしやすい社会に変わってきているが、しかし、それでも不安は多い。
こういった情報に誰でも簡単にたどり着ける今、何も考えず手放しで「子供欲しい」とは思えない人が増えるのは、明白なことではないだろうか。

産んだ親は愚か者の能天気?

上記のように、様々なリスクや不安のある中で出産するのは自分にはできないという話を挙げると、実際に妊娠・出産をした人たちにとっては、「何も考えずに産んだ愚か者って言いたいの?」「完璧な人じゃなきゃ子育てしちゃいけないの?」と、不快な思いをしたり傷ついたりするかもしれない。

しかし、わたしは決して、子を産み育てている親御さんのことを愚かだとは思わないし、完璧じゃなくても、誰でも親になって良いと思っている。
ツイート主さんの意見にとても共感したし、わたし自身子供は欲しくない、どうして子供を欲しいと思うんだろうと感じているのだが、親になった人たちのことは心の底から尊敬している。
きっと、ツイート主さんも同じだと、勝手に思っている。

もちろん、子供いらない派の人たちの中には、そうやって子育てする決断をした人たちのことを愚か者と思っている人、軽蔑している人も、いるだろう。
こういった意見には、わたしは賛同しかねる。
理由は先述の通り、子供は宝だからだ。


生き物の本能として出産育児は当たり前なのかもしれないが、こと人間に関しては、当たり前なことだとは思って欲しくないというのがわたしの持論である。

ヒトという生き物の育児期間は、とても長い。
親になった人からは「大変なこともたくさんあるけど、親なんだから当たり前のことだよ。」などという話も聞くが。
当たり前ではない。めちゃくちゃ大変で、でもめちゃくちゃ尊いことなのだ。育児って。
一人の人間を産み、安心で安全な環境で育て、適切な衣食住を提供し続け、成人まで育て上げるというのは、決して当たり前なことではないと思う。
とても凄いことだし、親を始め様々な人たちの努力によってやっと成り立つ奇跡とすら思う。

だから、わたしは親という人たちのことを心の底から尊敬するし、わたしにできることがあれば力になりたいとも思う。
虐待で子供を死なせてしまう事件など、とても悲しいと思うが、親に対して誹謗中傷も、批判的な意見も浴びせようとは思わない。
何度でも言うが、子育ては決して楽で当たり前なことではないからだ。

どんな親でも、何も考えていない親だったとしても、わたしはとても尊敬したい。
そして、どんな子供も幸せな環境で生きていって欲しいと思うので、親だけにそれを丸投げするのではなく、社会全体で子育てするような世の中になっていってほしいと願うばかりである。


どうして子供を欲しいって思うの?という疑問

わたしは、子供が大好きだ。
そして親という人たちのことを尊敬しているし、誰でも親になって良いと思っている。

一方で、「子供欲しい〜」という同世代の友人たちに対しては、正直賛同しかねる。
そして思うのだ。「どうして子供を欲しいって思うの?」と。
「わたしは子供は欲しくないな。」と。

実際に、「わたしは子供欲しくないんだけどさ。どうして欲しいって思うの?」と、友人たちに聞いたこともある。
返ってきた回答としてはこんな感じだ。

「え?子供欲しくないの?意外〜!」
「だって子供可愛いじゃん!」
「子供3人とか続けて産んで、育児休暇で10年くらい働かずにお金欲しい!」
「自分と自分の好きな人の子供とか間違いなく可愛い。」
「老後の心配しなくて良くなりそうだし。」
「親族がさ〜子供はまだ?ってプレッシャーかけてくるんだよね。」

全て、わたしと同世代である20代後半から30歳の女性の回答である。
なるほどと思うものもあれば、理解に苦しむものもあるというのがわたしの正直な感想だ。
そして、それでもやっぱり子供は欲しくないし、やっぱりどうして欲しいって思うんだろう?思えるんだろう?というのが、わたしの今のところの気持ちだ。

なぜそういった疑問が浮かぶのか。
きっと人それぞれ理由はあるのだろうが、わたしの中では2つある。

①そもそもネガティブで慎重な性格
②自分の子供時代の、親子関係での辛い経験

まず①について。
以前こちらの記事にも書かせてもらったが、わたしはいつも「最悪の想像」をしてしまう。
そして小さな失敗をめちゃくちゃ長期間に渡って引きずる。
そもそも自己肯定感のバランスが悪いというのもあるかもしれない。
何が言いたいかというと、最初の項目で述べた出産・育児のネガティブな話やリスクというものがどう頑張っても見逃せないのだ。

出産時に自分が死んでしまったらどうしよう。
自分の不注意で乳児を死なせてしまったらどうしよう。
いっぱいいっぱいになって暴力を振るってしまったらどうしよう。
自分では愛情を注げていると思っていたのに、子供にとっては辛い経験になっていたらどうしよう。

こんな風に考えてしまうのは、②の自分自身の親子関係による経験という部分が、大きいのだと思う。

こちらの記事で書いたが、わたしは面前DVという心理的虐待の被虐待児として幼児期から学童期を過ごした。
簡単に説明すると、目の前で父親が母親に暴力を振るってボコボコにするというものである。
そういう家庭環境の子供に多く見られるのが、わざと明るく振る舞い、家庭内の空気に過剰に気を遣うという現象だ。
なのでわたしは、両親からも周囲からも、「優しくて明るくていい子」と思われていたのだが、実際にはこの経験はわたしにとってかなり心理的負荷が高く、成人してからも、自分の中で数年苦しんだ。

わたしの場合、今はもう自分の中でだいぶ気持ちの処理ができてはいるが、成人して何十年も心に負った傷を癒せないまま、苦しんでいる人もたくさんいるのだ。

このような、心や体の安心安全が脅かされるような家庭環境で育った子供(特に、その環境が異常だったと気づいた子供)がどうなるのかというと、「自分は親のようにはならない。」と、いう大人になるのだろう。
もっと具体的に記すなら、「子供なんていらない。結婚もしたくない。」という大人や、「自分は絶対にいい人と結婚して絶対にまともな子育てをする。」という大人が分かりやすいだろうか。


完璧じゃなくても親になって良い。

先ほどわたしはこのように述べたが、それは、他人についての話である。
失敗したってたくさん周りを頼って、サポートして貰えば良い。

しかし、こと自分に関しては、完璧であろうとなかろうと、親になる=自分が一番辛かった、幼少期の安心安全を脅かしてしまう存在に、自分自身がなり得るということを意味する。
それは、わたしにとって、一番なりたくないものであり、したくないことなのだ。失敗してもいい、サポートしてもらえばいいという次元の話ではない。
自分が親になって子を傷つけるなんてそんなことはできない、自分の子にわたしのような辛い思いをして欲しくないと思う一方で、サポートしてもらったり周囲に相談したりして上手く(という表現が適切かは定かではないが)子育てできたなら、「なぜわたしは子供の頃、あんなに辛い思いをしなければならなかったのだろう。」と、幼少期の親や祖父母、関係機関に対する恨みの気持ちや惨めな気持ちが生まれてくることが予想される。
子育てが順調でも、不調でも、自分のことを苦しめることになるということだ。

だから、思ってしまう。「(わたしは子供を育てるのも親になるのもとても怖いから子供欲しくないけど、)どうしてみんな(そんな簡単に、嬉しそうに、)子供を欲しいって思うの?(思えるの?)」と。

そしてそれは、人によってはきっと、「前向きに子供が欲しいと思えることが、とても羨ましい。わたしもそんな風に思いたかった。そんな風に思える環境で幼少期を過ごしたかった。」と、いう気持ちが、あったり、なかったりする。


わたしには、少しある。
同世代の「子供欲しい〜」に賛同しかねるのは、羨ましい気持ちと自身の経験の間で、葛藤するからかもしれない。


子供が欲しいって当たり前?

今、転職活動をしているのだが、必ずと言って良いほど、「今後お子さんが生まれたとしても働き方として〜」とか、「お子さんのいる社員も多数在籍しているのであなたの数年後のビジョンも〜」とか、そういう話をされる。
わたしが新婚で、20代後半だからだろう。

この話を聞くたびに、「ああ、結婚したら次は子供っていうのが当たり前な世の中なんだなあ。」と、しみじみ感じている。
いや。「この人は子供を産まないかもしれないし」と配慮した結果、「今後お子さんのご予定は?」とか聞く方が問題だろうから、「子供ができたとしても」という前提で話が進むだけなのかもしれないが。

やはり、「結婚したら次は子供」という風習は、わたしの肌感覚としては根強い。
転職活動以外でも、結婚してからは子供どうするかという話題を振られることは少なくないからだ。
そして、「なんで子供が欲しいと思うんだろう?」という疑問に対しては、批判的な意見も目立つ。
しかし、実際には、単身世帯と夫婦のみ世帯が増加しており現在6割、子あり夫婦は減少し2割しかいないというデータ(https://toyokeizai.net/articles/-/290175)がある。
なので、もしかしたら、今後は「今時子供産むなんてすごいじゃん!」「子供は大変だから辞めときな。」などという時代が、来るかもしれない。そんな時代、心底来て欲しくないが。


わたしは、「子供欲しい」も、「子供欲しくない」も、どちらも当たり前の感覚であり、当たり前ではない感覚だと思う。
子供が欲しい人や、子供を産んで良かったと思える人たちからしてみれば、「なんで子供欲しいと思うの?」と、疑問に思う感覚はきっと分からないだろうし、逆も然り。
両者はきっと、気持ちを分かり合うというのは難しいだろう。


とはいえ、どちらも当たり前の気持ちとして尊重される、そういう世の中の方がいいなと、とてもありきたりだが、わたしは思う。

例え分からなくても、尊重することは、誰にでもできることだから。

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