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読書ログ :「百鬼夜行」シリーズ

 Twitterに書き貯めていた読書ログです。
 今回は、京極夏彦さんの「百鬼夜行」シリーズ。

 私が「百鬼夜行」シリーズを読みはじめたのは、『魍魎の匣』から。なぜならアニメ化されていたからです。読みはじめて違和感(これがシリーズ1作目ではないこと)に気づき、まあいいとりあえず読み切ろうと強行突破しました。
 そこから、戻ったり進んだり、止まったり再開したりしながら、とりあえず長編はすべて読み終えました。短編は読めていないものがあります。正直もうわっかんないです。いろいろありすぎて。
 いま思うと、最初に『魍魎の匣』から入ったのは、個人的には良かった気がしています。だって『姑獲鳥の夏』よりは判りやすかった……と思うから。
『姑獲鳥の夏』は、現実と妄想、現在と過去が入り乱れて、中禅寺の「憑き物落とし」の後でも、何が本当なのか判らない気分でした。おまけに、いろんな意味で血生臭かった。それよりは、『魍魎の匣』のほうが、ある種幻想小説のようで読みやすかったです。個人の見解です。
 なお、読む順番を間違えるのは、のちのち『陰摩羅鬼の瑕』と『邪魅の雫』でもやりました。私には「百鬼夜行」シリーズの順番が難しすぎる。

 どれが好きかと言えば、「今昔百鬼拾遺」三遍ですね。ええ、スピンオフで女子が中心のやつです。笑



▼ 文庫版で初読or再読

『姑獲鳥の夏』読みました。
のっけから血生臭いことこの上ない! 一人称の語り手は信用しないようにってあれ程学んできたのに信用してしまった私が悪い。しかし美人によろけるのは心底いただけない。


『魍魎の匣』読みました。
永遠の美なぞないのに、人間は追い求めて狂う。何て汚い。何て醜い。匣の中の永遠は、朽ちるしかない。


『狂骨の夢』読みました。
初読のときにメモしてあった「愛は本物だった」はものすごく奇麗事な感想だった。骨に固執した男たちと、愛に飢えた女たち。一対の仏であることすら、ひとには難しい。


『鉄鼠の檻』読みました。
僧と言っても人間、だけれどもあまりに異質。けれど、ものごとの起こりは、結局欲でしかなくて。


『絡新婦の理』読みました。
おっそろしく複雑で、読み終えても判らぬことばかり。買う男と売る女の間に、理解はあるのか。


『塗仏の宴 宴の支度』読みました。
いつにもましてパッチワークな物語。最後の絡新婦が、ああ。


『塗仏の宴 宴の始末』読みました。
理解できる葛藤への畏怖と、理解できない動機への恐怖。そして、本当の本当に黒幕が出てきてしまったことへの、納得。だから、繋がる。姑獲鳥も、魍魎も、狂骨も、鉄鼠も、絡新婦も。


『陰摩羅鬼の瑕』読みました。
今回の手がかりは存外判りやすかった気が。でも、初夜の有無はどういうことだったのだろう。読み飛ばしたかな……
 +
……しかし、実は間違えて先に『邪魅の雫』を読み始めてしまって「話が繋がらない。短編集を読めということか」とか勘違いしていたのは内緒です。いまなら邪魅の冒頭の男が判る。


『邪魅の雫』読み終えました。
視点は関口に戻らず、榎木津は大人しく、木場は殆ど出て来ず。中禅寺だけがいつも通り。私たちは結局、誰かの物語を横から見て、否、聴いていただけ。勝手に死ね。勝手に殺せ。


▼ 電子版で再読(なぜか感想抜けあり)

電子百鬼夜行で『姑獲鳥の夏』読み直しました。
見たいものしか見えない、が、空間的なそれだけではなくて、時間的なそれすらあるという多層性! 捕らわれた幼子たちだけが哀れだ。

電子百鬼夜行で『魍魎の匣』読み直しました。
少女たちが綺麗なまま永遠になるのなら私はそれを否定しないけれど、肉体はすべて腐り落ちるしかないのだから、おぞましい。

電子百鬼夜行で『狂骨の夢』読み直しました。
記憶が混ざっていた理由とかは憶えていたけれど、「儀式」の意図はすっかり忘れて茫然とする。昔にメモした感想は「愛は本物だった」んだけど、これは誰のどの愛を指していたのやら。

電子百鬼夜行で『鉄鼠の檻』読み直しました。
『姑獲鳥の夏』で語られた因縁が、寺の顔をした箱庭でまた生き返る気持ちの悪さ。禅を体得するには、禅から離れなければならないのかも知れない。囚われるほどに、悟りからは遠のく。

電子百鬼夜行で『塗仏の宴 宴の支度』読み直しました。
そのひと本来の憑き物は落ちていたのに、憑くはずのないモノが命を奪う。まるで関口の幻覚の中に閉じ込められたかのよう。

電子百鬼夜行で『塗仏の宴 宴の始末』読み直しました。
これまでは偶然の細い糸で繋がっているだけだと思っていた事件やひとびとが、意図的に繋げられていた衝撃。明確な敵など、憑き物落としには存在しないと思っていたのに。

電子百鬼夜行で『邪魅の雫』読み直しました。
『絡新婦の理』とは真逆の、制御できていない殺人の連鎖。それを引き起こした者と「しずく」の忌まわしさが、あまりにも不釣り合いで、いっそ哀れ。


▼ 三社連携「今昔百鬼拾遺」

『今昔百鬼拾遺 鬼』読みました。
鬼になったのは、誰か。現世では、鬼は金棒ではなく、日本刀を持つらしい。美由紀ちゃんと敦子さんが中心なので、最初は多少まだるっこしかったけれども、読後感としては話がとてもスムースでした······!笑
 +
「鬼」の中で、敦子さんは言う。
「人種や性別も含めての話だけど、個人の努力で変えられない属性を評価の基準にするのは前近代的な考え方だと思う」(p25)

 ↓ 再読
久々に『今昔百鬼拾遺 鬼』読みました。
由来は鬼の副長(!)がはじまりだったとしても、その文字を背負ったことで、殺人鬼に辿り着いてしまった悲劇。鬼の擬似憑き物落としは、とても静かで、ただ哀しい。


『今昔百鬼拾遺 河童』読みました。
河童が求めるのは、何か。人間は、生きたままでは河童に成れぬらしい。話の通じない多々良さんがだんだん愛しく観えてくるのはなぜだ笑 でも私、復讐は成されてもよかった、よ。
 +
「河童」の 中で、敦子さんは思う。
原子力と云う自転車に乗るのに人類は未だ未だ幼過ぎるのではないだろうか。免許取得の資格が手には入るのは、もっとずっと未来のことだろう。資格が手に入ったところで、免許を得るための試験はかなり難易度の高いものになるだろうとーー (p79)

 ↓再読
久々に『今昔百鬼拾遺 河童』読みました。
冒頭は、河童というものの定義も事件のあらましも散逸的でどうなるかと思っていたけれど、河童と蛇と龍と猿が繋がって、泉にたどり着く結末はとても好きです。河童に泳ぎで挑んだら、溺れるしかないんだよ。


『今昔百鬼拾遺 天狗』読みました。
天狗が攫うのは、誰か。いくら山に登っても、もう天狗に連れて行ってもらえぬらしい。そういえば、天狗はショタを愛でるものではなかったっけ笑 しかし、今回の事件はあまりに······憤る。敦子さんのみならず、美也子さん美由紀ちゃんの啖呵がなければ、読めない。
 +
「天狗」の 中で、美由紀ちゃんは言う。
「何でもかんでも戦いに持ち込んで、無理矢理優劣付けて、上に乗った方が偉いとか、馬鹿じゃないですか。(略)世界中には色んな人がいて、誰もが幸せになりたいんですよ。少数派だから切り捨てるんだとか、対立するから潰せとか、本気で頭悪いですよ」(p372)

 ↓再読
久しぶりに『今昔百鬼拾遺 天狗』読みました。
詳細を忘れていながら胸糞事件だったという記憶があった一冊。読み直して、事件の動機も背景も納得の憤りでした。個人ではなく女であるというだけの認識。そのくせ自分は血筋を語る老害共。犠牲者が浮かばれる術が見当たらない。


 さてさて、「鵺」が楽しみですね!!!


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