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『読みながら書く』 1
一、なぜ書くか
なぜこの文章を書き始めるのか。理由が少しややこしいので、気を落ち着けて明瞭に説明しようと思う。
今年(2023年)1月の末、私は精神科を受診した。言葉のゆっくりした、落ち着いた医師は私の話を聞き、「あなたは強迫性障害です」と言った。
医師「なんでも、深く考えてはだめです。まあこんなものかなと、気軽に考えて下さい」
私「追究するのは良くないんでしょうね」
医師「追究してはだめです。こじれます。追究はしないように」
追究をしないように、という言葉は、徐々に私の中の「強迫性障害」を弱めていった。ちからのある言葉なのだ。
しかしそれでもなお、消えない違和感、消えない不安感がある。
「それは一体どういう不安感なの?」と聞かれても、明瞭な説明はなかなか出来ない。一例をあげれば、「自分が今持っている考えは、今後生きていく上で私に不利益をもたらさないだろうか」というような不安感である。しかしここで長く説明すると文章全体のバランスが悪くなりそうだ。この不安=強迫性障害が、弱まっていったというところに戻ろう。
強迫性障害は弱まった。が、残っている。残党がいる。根絶やしにしようと私があれこれ考えるほど、残党は強くなる。それは当たり前だ。不安を根絶やしにすることを「追究」しているのだから、悪化するのは当然なのである。私はこのようにして失敗を繰り返しつつ、しかし大きく心身の調子を崩しはせずに、この5か月ほどを過ごしてきた。
強迫性障害もそうだし、そのほかの不安もそうだが、それらを何か一つの考え方や技法や言葉で「封じ込める」のには無理がある。かといって、なんの備えもなく不安に立ち向かい、徒手空拳で社会を生きるのはあまりに心細い。また、組み合わせて使用するにしても、「正しい組み合わせ方」にこだわり始めると、そのこだわり自体が強迫性障害の原動力になる。
どうしたものかと思いながらジュンク堂書店を歩いていると、『モンテーニュ』(保苅瑞穂著。講談社学術文庫)という本が目についた。13ページに、次のような一節があった。
“結局これを生涯書き続けることになったのは、「生活を作る」(友岡註。ここでいう「生活」というのは「われわれが銘々の身の丈に合わせて、身もこころも平穏でいられる日常の生活」(同書12ページ)のことである)にはまず自分というものを知り尽くす必要があったからで、それには書いてみることが一番なのだ。ところが書いてみると、人間の正体は一日一日姿を変えて掴みようがなくて、そのためにかれ(モンテーニュ)は自分を追い続けて、死ぬまで書く羽目になった”
この文を読んで何か心の中に反応があった。そしてじわじわと次のような考えが浮かんできた。
「違和感や不安感との付き合いについて、文章を書いてみよう。それらに対して私が用いた『武器』のことや、それらがいかに効果を発揮し、また使用不可能になったかということも、書いていこう」
「結論だけでなく、過程も書くことで、のちのちの自分自身や、他の人の参考にもなるだろう」
「不安が際限なく生じて、どうしても落ち着かない時は、その旨を書けばよいだろう」
このような考えが浮かんできた。
それで今、私はこの文章を書き始めたのである。
(2023年6月12日)
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