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『読みながら書く』 6

六、安心感と違和感

 

昨日、友人の「note」を読むことが出来ない旨を書いた。今日、小雨の中を歩いている時に考えが進んだ。

読みたくない理由は、それを読むことによって、今ある「安心感(自分は十全であって、改善の検討等を今すぐ行う必要はないという感じ)」が崩壊するのが怖いからだ。今の私における安心感というのは例えば、「追究しないという事を心がければ大丈夫だ」とか、「随筆を書いていればバランスが取れるのだ」といった考えに支えられた安心感の事である。友人の文章を読む事で、何かしら気づくべきことに気づかされ、今ある安心に亀裂が走る。これは確かに恐ろしい事である・・・・・・。

 

小雨の中をさらに歩く。また考えが進んだ。

読みたくもないのに、何か気になる本というのがある。そういう本というのは、なぜ気になるかと言えば、それを読んでも私の安心感に亀裂が走らない事を確認したいから、気になるのだ。

しかし、安心感に亀裂が走らないかどうかを気にして何かを躊躇したり、逆に何かを意に反して行うという状態は、「安心している状態」とは言えない。逆に、「違和感」にまみれて「ラフに」動いている(動かされている)時の方が、「安心している状態」だと言えなくもない。この矛盾には我ながら少し笑ってしまう。

 

 

 実際には、私はほとんどいつも安心していない。「安心感を保証するもの(キーワードとか行動とか)」があるにも関わらず、である。そして、何らかの衝撃(本の一節など)によって、「安心感を保証するもの」を信頼することが出来なくなると、その安心感は崩壊する。そして、違和感にまみれた状態がしばらく続いた後、また別の「安心感を保証するもの」を私は見つけてきて、安心感を得るが、すぐにまた「崩壊を恐れる」状態に入る。

大体このようなサイクルを繰り返しているのが私の心である。

しかし私は何故 「安心感のある状態」を求めるのだろうか。理由はいくつか浮かぶ。

一、その状態は、不安に振り回されず、「自由」である。

二、その状態であれば多少の事で動揺しない。

三、その状態であれば様々な事に積極的に取り組め、成果を上げられる。

なるほど魅力的である。が、考えてみると、本の一節や友人のnoteの文章で崩壊するような安心感に支えられた「自由」、「動揺しない心」、「積極性」というものは、どうも儚い、脆弱な、うすっぺらなものであるような気がする。

とはいえ、「違和感の中に安住してやろう」と威勢よく言えないのも事実である。

考えは尽きないが、いったん休憩しよう。旧約聖書の「コヘレトの言葉」を引用して、この文章を締めよう。

“ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。”   (新共同訳聖書 「コヘレトの言葉」 7章29節)

(2023年6月15日)

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