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手を動かすことで、当事者であり続けたい。

家から車で10分ほどの距離に、河原があります。
そこは、夏になると子どもたちが集まり、魚や沢蟹を掴んだりして遊んでいます。

近くの幼稚園の子どもたちも、お散歩がてら川遊びをして行くし、お散歩中のワンちゃんも身体をピターッと川に浸して涼をとります。

ちゃぷちゃぷと水は流れ、とても綺麗で澄んでいる。
真夏でも水はちゃんとひんやり冷たい。
そして、木陰は涼しい風が吹いて心地いいのです。


ぼくは、アポのない日は折りたたみの椅子とサーモスに入れたアイスコーヒーを持って、河原へ行きます。そこで仕事をしたり、本を読んだりして午前中を過ごす。
9時30分くらいになると、少しずつ家族連れが増えて、河原は少しだけ賑やかに。

そんな子どもたちや、ママさんたちの声を聞きながら過ごす時間は、僕にとって至福の時間。

いつも綺麗で、心地よい河原は、利用する人たちにとって大切な場所でした。

河原が、ゴミだらけだと気がついたのはたまたまいつもより早く河原へ来た時でした。
いつもより30分ほど早く来れたその日、僕は一番乗りで、いつも座っている場所を確保しようと河原へ目を向けたとき。

ペットボトル、虫カゴ、パンの袋、おもちゃの残骸。

子どもたちが遊んだ形跡が、至るところに残っていたのです。
思わず立ちすくみ、辺りを見回しました。
いつも綺麗なはずの河原には、ゴミがたくさん。

──今日は、こんなにゴミが散らかってるんだ。

そう思いながらも、ゴミ袋もなく、ぼくはただいつもの場所に椅子を広げました。


誰もいない河原でひとり、気持よく仕事をしているとふたり組の男性がやってきました。
彼らはゴミ袋とトングを持って、ゴミを拾い集めながら歩いていました。

作業着を着て、首からネームカードをぶら下げて、ゴミを拾っている。

ボランティアか、市の職員さんか、だろうと思いました。

彼らはパパっとゴミを拾うと、元来た道へと戻っていこうとします。
小川を渡った、僕のいる方へは来ませんでした。僕がいたからなのか、それともこっち側へは川の中へ(くるぶしほどの浅さ)入らないと行けないからか、向こう側のゴミだけ拾って立ち去ろうとしていました。

「あの、もしご迷惑でなければ、こっち側のゴミ拾わせてもらってもいいですか?」

超人見知りの僕にしては勇気を振り絞り、声をかけてみた。

「あ、いいんですか? すみません」

そう言うと、ゴミ袋とトングを頭上に掲げ、こっちこっちと手招きした。

僕はじゃぶじゃじゃぶと川を渡り、ゴミ袋とトングを受け取ると、また川をじゃぶじゃぶと渡った。

「すみませんねぇ。なかなかそっち側、渡りづらくって」

「いえいえ、どうせ川に入るつもりで来てますから。ボランティアか何かですか?」ついでだと思って聞いてみた。

「ボランティアというか、そこの作業場で働いてるんですけど、夏はちょこちょこゴミ拾いに来るんですよ」

彼らは近くで働く人たちだった。
僕が、いつも綺麗だと思っていた河原は、彼らがゴミを拾ってくれていたからだったのだ。

僕の目の前にある当たり前は、当たり前なんかじゃなくて、誰かのおかげなのかも知れない。
そんなことは知っていたはずだったのに、自分の目の前でその姿を目にするまで無自覚だった。

一緒にゴミを拾えたことで、ほんの少しだけ、河原を利用するだけの視点から、河原と共に過ごす視点に触れることができた気がする。

手を動かすことは、自分を当事者にしてくれる。
これは、家事や育児だって同じこと。手を動かすことで見えてくる世界を大切にしていきたい。


では、また明日。

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