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ちょっとおかしな子どもだった頃のお話。

ワタシは自分でもこの年齢になるまで気が付かなかった。ワタシ自身が「人と違う」「何か変かも?」と言うことに。長い年月が過ぎて、ココロが病んでしまってから、いまもお世話になってる心療内科に通い続けて、さらに、今の職業(とある業務の補助ですが)と関わることがあって気がついた。
心療内科のドクター先生は、はっきりとは病名について断定はしないのですが…通い続けているとドクター先生もいろいろとテストをしてくれる。その過程で自分自身の事を振り返りをしてみて、思い当たることがポツポツと出てきた。数多くあるうちの中の「子ども」の頃の話。

今の時代であればきっと、それも「個性」と言われることが多かったかもしれない子どもだった。いま考えると、親たちからすれば育てにくい子どもだったかもしれない。小学生になった1年生で学校へ行くことを完全に拒否。毎日が朝から親とのバトル。ある時は朝からそこらへんにある金網にしがみつき、学校へ行きたくないと泣きわめき、別の日には集団登校の班の人たちに泣き泣き学校へ行くもんだから、それだけでもかなり迷惑をかけ、まわりの声かけにしぶしぶうなずくだけ。子どものワタシには周りに合わせないといけないという、子ども社会の独自の?ルールに従うと言う意味が理解できなかった。
小学校とはなんぞや?
何するところ?
保育園とは何が違うの?
ひたすらはてな?しか頭には浮かばず、自分の中の納得できるものがないので、学校の意味もわからず、苦痛でしかなかった。小学校1年生ができるものが全てできなくて、読みも書きも数字も計算もまったくわからなかったために、それを同級生から笑われたりからかわれたりもした。さらに子どものワタシは偏食で間食は食べるけど食事ついては全く興味がなく、おまけに少食で給食の量に食べる事がついていけず常に最後まで食べきれずにいた。
そのために、学校へ行く意味が全くと言っていいほど見つかなかった。追い打ちをかけるように仲の良かった保育園の友だちだと思っていた周りの同級生にもいつの間にか距離を置かれていた。
学校へ行く意味がわからないのだから、授業の意味もわからず、先生の書く黒板の字が何を書いているのかわからなくて、自分のフルネームの平仮名以外は全く文字の形がわからなかったので、国語の教科書の文字が何なのかわからなかった。数字や計算はもっと不明なもので不愉快ななんも楽しくないものだった。数字を足したり引いたり…おはじきなどを使いつつもやっぱり計算の意味がわからないために算数が楽しいと思う事はなかった。そんなワタシなので、親たちは常にイライラしてたかもしれない。しかし、親はコワイものだとすり込まれていたために、親の機嫌を伺うことばかりしていた。怒られることがコワイから。

#創作大賞2024
#エッセイ部門

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