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「最適化」に徹底的にこだわり抜いた結果、不自由さへの果てしなき自分の欲深さに気づいた話

さいきん、「最適化する」ということに、とてもハマってしまって困る。

「最適化」という言葉、いつから自分の日常にあたりまえのように染み付いてきたのだろう。

最適化がなにか、と説明しなくても、最適化だよ、最適化、というようなかんじに、いまはなっている。

「最適化」という言葉が使われるようになる前から、わたしは、ものごとを自分にとっていちばん効率いいオペレーションでやるということに、こだわってきた。

だから、組織で仕事をしていたときは、とても大変だった。

入社してすぐに、その組織のオペレーションで、最適化していないところが、まるで炙り出されたかのように、いやでも見えてしまう。

十数年間、マスメディアの仕事をしてきてからは、フリーもやったり、役所だったり、いくつかの福祉関係の現場だったり、個人店だったり、スタートアップ企業だったり、いろんな組織を経験したけれど、いちばん始めに目についてしまうのは、その組織でのオペレーションにおいて、無駄な動きの数々だった。

そういう組織というのは、というか、どんなところも人員が足りていないといえばそれまでなのだろうけど、メンバーの口癖が「人員が足りない」「増員してくれれば、○○できるのに」だ。

だけど、いざ増員しても、さらにもたついてしまって、混乱してかえって仕事量が増えたり、もめごとが増えたりして、それでひとりふたりと辞めていき…

そしてまた、「人が足りない」「増員してくれれば、○○できるのに」と同じことをぼやくということを、えんえんと繰り返している。

単純に人を増やせばいいという問題ではないのは明らかだ。

やはり、オペレーションの問題にほかならないのだが、そこにはどんな組織でも、なぜかあえて誰もふれようとしないのだ。触れたら最後、みたいな空気なのだ。

まあ、素直に、もう、付き合いきれなくて、やってられない。

だけど、そういうまどろっこしさに正面から向き合わずに、目を逸らして、わかっているのかそうではないのかわからないけれど、気づかないふりをして、付き合える人が、組織で働くのには向いているんだろうなあと思ったのだった。

前置きが長くなってしまったけれど、そういうふうに、組織で働くみんなが、「最適化」というものが、だからやっぱり必要だよねということになって、やろうということになっても、いざやるとなったら「本業も忙しいのに誰がやるの?」という雰囲気になって、じゃあ提案したわたしがやるんで、と手をあげて、その部署ではありがたがられても、会社からは迷惑がられてしまったりとかして、わたしは次第に、自分のことがわかっていった。

わたしは、「最適化」というものに、徹底的にこだわる、潔癖なほどの最適化人間なんだな、ということだ。

組織で「最適化」は、自分の力ではどうもすることができなかった。ひとつの部署では、同僚や上司の理解を得てじわじわと小出しに提案をし、やっと実現することができたけれど、異動先でもそのノウハウを持ち込んだところ、「異業種からの外様がやかましい」などと、圧の強い古株たちから却下されて、だまってなあなあな世界に付き合うのも耐えきれずに去ったり。会社からも、余計なことしたお前のせいだと言われ…。

だから、もう組織のコアメンバーとして働くのは、とてもじゃないけど、最適化潔癖すぎて耐えきれないから、諦めた。



だけど、個人で仕事なりプライベートなりで、最適化するのは、際限がない。

昔から、どうやったら、もっとこの効率的じゃないやり方を、効率化できるだろうか、という方法や、ロジスティクスな枠組みを考えるのが、なぜか大好きだった。

気づいたら、いつも、そういうことを考えていた。

それはわたしが、いつもなにをやるにも、「どうやったら早く終わってサボれるか」ということをファーストに考えて、仕事をするにも動いているからかもしれない。

もちろん、それは、手抜きをしたり、クオリティを下げるということではない。

中身にもとことんエキセントリックにこだわったうえで、そのうえで、あとはたっぷり余裕をもって過ごしたいのだ。そう、ただ、余裕を持ちたいだけなのだ。

組織で仕事をしていると、どう普通に考えても、ちょっとなにか不測の事態が起こったら、2時間とか3時間とかゆうにおしてしまったり、残業コースだな、というきつきつのスケジューリングを組んでいる人がとても多いことに気づく。

たまになら許せるけど、そういうことをいつも繰り返しているのに、自分のスケジューリングに無理があることに気づかずに、「あーあ、どういうわけかわからないけど、またきょうもおわんなーい」と泣きながら言っている。

ひとりでやっているなら、どうぞご勝手にえんえんとやっていてください、ですむ。

だけど、全員でやるものに、そういう感覚を巻き込まないでほしいなと、すごく思ってしまう。

全体の予定が押して、これもリスケ、あれもリスケされるほうが迷惑だし時間の無駄だし、本人がなにをどうリスケしたのかとか頭がパンクしてしまっていて、そういうぐちゃぐちゃな頭にも付き合わなければいけないから、すごく疲れる。

ただでさえ終わりのないのが仕事というものなのに、区切らずに、ぎりぎりのスケジュールで組んで、不測の事態にもなればさらに焦って、みんなもぴりぴりしてしまうから、こっちの自律神経なんかも相当乱れて、なにもいいことがない。

不健康になる、ってだけで、すごいコストなのに。そういうコスト意識が低い人が多すぎるな、って。

たぶんわたしは、いつも余裕を持っていたいんだと思う。いつ、どんな不測の事態が起こったとしても、リカバリーできる余裕みたいなものが。

余裕がないと、神経が休まらなくて、不健康になってしまう、それってコストでしかないと思うから。

みんなはきっと、わたしみたいに「早く帰って休みたい」とか「早くお布団入りたい」とか「さぼりたい」とか思ってないんだと思う。

そういう気持ちがあれば、ひたすらいかに効率的に濃度を圧縮するか考えるのに、そういう発想にならないということは、みんな自分の裁量でなにひとつできない終わりのない労働というものが、好きで好きでたまらないのだろうか?

みんなほかに好きなこととかやりたいこととか、趣味とか、大切にしていることとかないのか?

体や健康が大事ではないのか?

それとも、あるけれど、わたしほど、そこまで人生におけるいろんな優先する事項の配分とか、あまり気にしていないのだろうか?

そういうふうに感じてしまうということは、わたしはやっぱり、「最適化」だったり、スケジューリンングだったり、時間配分というか、資源は有限だから、自分の割けるリソースの配分とか、そんなに真剣に考えてないんだろうなと思う。

こだわりが強いのだろうか、潔癖なのか、わからないけれど、組織にいても、プライベートで誰かとお付き合いするにしても、その感覚が自分よりゆるい人は、わたしはすべてルーズに思えちゃって(人の時間を奪っているという意味で)、次はもうないと、ひそかに心に決めているのでした。

時間を奪ったとか奪われたとか思わなくてすむ人と、かかわっていたい。

ほんとうは、こんな前置きではなくて、自分が、その「最適化」というものに、さいきんは、組織から離れて、際限がなくなるまでこだわれる環境になってしまったせいで、潔癖が過ぎすぎて、強迫神経症のようになってしまって困っている、ということを書こうとしていたんです。

だけど、「最適化」という言葉から、組織にいた時代に、こんなわたしはうっぷんをためていたんだな、むしろここがいちばんストレスだったんじゃないかな、ということからまずは語らないと、気がすまなかったようです。

人それぞれ、自分に最適なペースってあるから、速いペースに合わせるのはできても、案外、もたついている遅いほうの多数派のペースに合わせるほうが、ブレーキをずっとかけさせられているかんじで、耐えきれないなあっていうのがすごいあった。

それでいて、みんな平気でたらたらやってるから、この無駄なお付き合いの時間、なんなんだ、って。この無駄な時間なに?っていつも思っちゃってた。

だけど、昨日投稿した文章の内容(突き詰めたらなんでもキリがない話)とも似ているけれど、あらゆるものの「最適化」にとらわれすぎても、それはそれでキリがない。

どこまで突き詰めればいいのかわからない「最適化」の難しさというものに、わたしはいま、ぶち当たっています。いまここです。

ほどよい「最適化」を実現しようとしているのに、そのプロセスに、すごい労力やお金(初期投資とでもいうのか)がかかりすぎてしまって、長期的には最適になるという緻密な計画に基づいてもちろんやっているのですが、めっちゃ疲れて燃え尽きて倒れてしまったり。

お金や労力も有限だからこそ、その「最適化」にそこまで割くのだったら、もっと別の「最適化」を優先してやったほうがよかったんじゃないか、って。

そんな後悔だったり、ああでもないこうでもないと考えるうちに、考えすぎて自家中毒になって脳があふれそうにパンクして参ってしまうことが、最近すごく多い。

これじゃ、「最適化」をやろうとしているのに、本末転倒だと思う。

だけど、組織だったり、一般的な価値感覚では、ぬるすぎて付き合えなかった。

だからこそ、楽しめる不便、この不自由さは残していいな、というものは、しっかり必要だと見極められる、そういう感覚も人には備わっているのだということは、最適化しつつも、忘れたくないものだ。

そういうふうに書きながら、そういう不便や不自由さというものを自分のペースで、不便や不自由さとも意識せずにやる時間をたっぷり味わいたいから、わたしは、こんなに血眼になって最適化にこだわっているのかもしれない、とふと思ったのだった。

誰よりもわたしは、効率が悪いし、不自由な人間なんだと思う。

だから、最適化できるところは誰よりもして、あとは邪魔されない自由な姿でいたいのだと思う。欲張りなのだ。



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