自己肯定感が爆下がり【「ライター」を始めてみたけども…①】
ことし6月から、「フリーライター」と名乗って、「ライター」をやってみた。
「ライター」というものをやってみて、いま4ヶ月くらい。少しだけ簡単に、ざっくりとしたところだけでも、きょうはちょっと、振り返ってみようと思う。
「ライター」ふわっとしてライトな言葉の響き
まずひとつ目。
「ライター」という言葉の響きについての謎は、いまだにわからないということ。
「ライターさん」なんて言われたりもする。
<ああ、ライターさんですか。ああ、ですよね、あ、わたし、ライターですもんね>みたいな。
あまり言われてもピンとこないし、自分でもピンとはまだきていない。
ふわりとしたその言葉の響きは、ふわりとしているからこそ、軽やかに、ライトに、どんなジャンルを書いたって、それは本人の自由だし、周りから、なにひとつカテゴライズもされない。
ジャンルやテーマに一貫性がなくても、芯がないなんて、勝手に言わせておけばいい。
それは実に自由で、身軽だ。
「ライター」という言葉のイントネーションも、上がって下がるのではなく、平板で、ライター。フラットで、そこになにも意味がないかんじ。
一方で、そのふわっとして、ライトで、平板な響きにおける、自分にとっていい意味ととっていた軽薄さは、保守的だったり、マスメディア信仰が強い相手にとっては、まるで汚らしい虫けらを見るかのように、蔑まれるアイコンでもあることも、知った。
そういうふうなイメージを浴びせられると、自分まで汚らしい存在に思えてしまうし、それだけで自己肯定感が爆下がりしてしまうのは、わたしだけなのだろうか。わたしは弱すぎなのだろうか……。
でも逆に「ライター」という言葉の響きでもって、それによって、わたしのように、ただその「ライター」という言葉にそれ以上もそれ以下の意味も持たないフラットな印象しかもたない人も、この世の中には、どんな立場や身分に関係なく多くいるということも知ったし、そういう人たちに理解してもらうことで救われもした。
「ライター」という肩書きの名刺を見た瞬間、態度を豹変させる取材先
だけど、「ライター」という言葉を聞いて、それだけで、過去のなにか個人的な私怨を想起させたりするのだろうか、わからないけれど、その私怨も含めて、いかに「ライター」という人種に自分は毛嫌いしているかということを、「ライター」という軽薄な名刺を渡してきたわたしに、ぶつける人もいた。そんなこと私に言われても、知ったこっちゃないのだけど。
書かせてもらっているその媒体にたいしては、いつもお世話になっています的な「目上」か「対等」だった人が、わたしの肩書きが「ライター」だと知ったとたん、態度をころっと変えてきたりする人もいた。
足元をみて、値踏みして、本来は権威にへこへこしている、たいした成果もあげていない専門家が、わたしの足元だったりフリーランスという立場の弱さを知った瞬間、謝礼をせこくしつこくせがんできたり、無茶な要求をふっかけてきたケースもあった。
また、こういう趣旨でのインタビューと約束して支払った謝礼であるにもかかわらず、「やっぱり話せない」と突然ひよられてしまって、記事化が反故になってしまった。
「その代わりに」と、なぜいま?というタイミングかわけがわからない自分の古い論文を載せてくれと圧をかけられ(初めからそれがその取材先の狙いだった、なんていやらしいやり方)、依頼を受けた媒体の紙面に突然穴を開けることはできないため、無償で引き受けることになり、あらゆる労力において大損失の痛い目をみたり。
でも、ちゃっかり謝礼は請求してくるのだから、ずうずうしいなあと、あのせこさと下品さは、いまも虫唾が走るくらいに気持ち悪い。
ライターは「倫理やモラルが欠如した」「平気で盗用する」「ろくに取材しない」と決めつけてかかられる
あるいは、わたしが「ライター」と知ったとたん、「ライターはあることないことを平気で書く」と、それは職業にかかわらず個々の倫理の問題であるにもかかわらず、自分のこれまで会ったごくごく一部の「ライター」でもって、倫理やモラルが欠如している人間だからこんな職業を恥もへったくれもなく名乗れるんだと、勝手に決めつけてかかってくる偏見や差別むきだしの人もいた。
また、「ライター」はろくに取材もせずに、勝手になんでも人のものをパクって捏造するとまるで犯罪者のように決めつけて、たとえば、マスメディア(全国紙)の記事を引き合いに出し、「○○新聞のここのフレーズと酷似している、盗用ではないか」と言いがかりやクレームをつけてくるということもあった。
わたしは全国紙の記者も10年近くしていたけど、それはたぶん10人記者なりライターがいたとして、9人以上はそういう書き方になるよなという、どうでもいいフレーズにおいてであった。
安倍元首相が銃撃されたときのマスメディア各紙の一面見出しが、どれも同じというか、それしかつけようがないと、冷静に考えたら納得するたぐいのものが、「ライター」の手にかかったものにはバイアスをもって疑いの目で見られる。
企業や組織にとっては、フレーズひとつひとつがブランディング的に大事なこともわかるけど、記者やライターにとって、なんのクリエイティビティのないところで、盗用などと言われたら、ほんとうにがっかりしてしまう。
なぜなら、すくなくともわたしは、全然そんなところで勝負なんてしてないから。
そんなところに着眼点も置いてその記事を作ろうなんて思っていないし、こちらの仕事や専門性や職業をばかにするなよと、いまも恨みや悔しさが募りまくっている。
こっちは蔑まれながら、相手を尊重したりリスペクトなんてできない。もしくは、ずっと蔑まれて当たり前の職業なのだろうか……。そのへんはみんな、どうやって折り合いをつけているのだろうか。
大きな組織の盾を持てないという弱さが自己肯定感の爆下がりに直結
取材先から、そんなふうになにかいいがかりをつけられたとき、マスメディアにいたときは、大きな組織だからそれを盾に戦えたけど、フリーランスのライターになってしまったら、その大きな組織の盾というものがないと、こんなに立場が弱くなってしまうものなのかと、たくさん実感した。
いいがかりやクレームをつけられる、出禁にさせられるということが、組織にたいしてではなく、個人にそれが向けられると、いとも簡単に自己肯定感が爆下がりするんだなあと。なんど爆下がりしたか数えきれない。
フリーライターが書いた同じ内容のものがマスメディアにも掲載されれば、事前の確認ありなしにかかわらず、権威あるものに掲載されるためならと受け入れられやすいけど、「ライター」が書いた記事となれば、確認させないなんてありえないよね要求すべて飲み込まないわけないよねというような圧をかけられたり、てにをはすらもうなにもかも気に入らないようで、坊主憎けりゃ袈裟憎しになるという事態も経験した。
こちらも、半日で仕上がるような内容の記事を、数ヶ月にわたって引き伸ばされ(取材を諦めさせようとする牛歩作戦をとられ)、何度も修正をしたけれど気に入らないようで、いつも真っ赤っかの修正を出してきたため、最後はもうわたしもがまんならくなってキレて、寄稿記事がきたような体裁に最後はした。
なにやってるんだろう、自分、って、そのとき思った。そういうことをするのは、すごく自分では、なさけないことだった。記者やライターとしての尊厳を、最高に踏み躙る行為をされたとわたしは思っている。おぼえてろよ、こんにゃろーといまでも思いだすたびに悔しさがこみあげる。
マスメディア信仰だけがすべてじゃないと思ったけれど…
わたし自身は、読売新聞にいたから、媒体でのネームバリューや、取材相手にとっての利用価値によって、値踏みされることは、いやなくらいわかっていたとは思う。
たとえば、新聞でいえば部数の多さだったり、日経新聞は別格的な、マスメディアのなかでもピラミッドがあって、ましてや「webメディアで取材したい」なんていったら、「(横文字すぎて聞き取れなくて)は!?」「ほんとに存在してるの?」みたいに言われて、相手にすらされなかったりしていた。
PVはヤフトピなんかにのったりバズったりとかしたら、マスメディアなんかよりもはるかに多いというのに、そんなことではなくて、いかに腐ってもマスメディア権威主義というのが、この世の中の主流であるかという側面も見ていた。
だけど、それもきっと、自分に(というかその看板)に寄ってくる一部の人たちがそうなだけの特殊な世界なだけであって、すべてがすべてではないとも思っていた。世の中はもっと、バランスがよくまともに、相対的にみたらプラマイゼロみたいにできているとも思っていた。
それだけに、マスメディアの世界からはなれても、ふたたびマスメディア信仰の根強さに出会ってしまうことがあると、なんだかなーという気分になったのだった。
◇
冒頭に、「まずひとつ目」ということで、もっと簡単に、ふたつ目、みっつ目を書けると思ったけど、「ライター」ってことばひとつで、こんな長くなってきてしまったから、今回はここでおしまい。
ふたつ目、みっつ目は、また気が向いたら書きます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?