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「チーム小夏」が節目を迎えた日

小夏ちゃんの避妊手術当日


きのうは小夏ちゃんの避妊手術だった。

朝、主治医から、術前の最終説明などが終わって、最後、小夏ちゃんを看護師さんに預けるとき、持っていたリュック型のキャリーも一緒に預かってもらえるのかと思っていたけれど、「キャリーはお持ち帰りください」と言われた。

手術は正午ごろから開始予定で、1泊2日の入院予定だ。

病院での待機はできず、手術開始時と、手術終了時に、電話をいただき、その後、面会に行くことにしていた。

わたしは、病院からの連絡を待つため、とりあえず、病院の外に出た。

空のキャリーバッグを抱え、喪失感

手ぶらで外に出るほうが、まだよかった。

小夏ちゃんが入っていない、空っぽで軽いキャリーの取っ手を持って、街を歩いてみたのだけど、その空っぽで軽い空虚な持ちごこちから、<小夏ちゃんがそこにいないのだ>という喪失感を、たとえるならば喪失感の鞭のようなものが、わたしをビシビシと、何発も何発も打ち付けて、訴えかけてきたのだった。

ほんとうは、自宅に帰ってひとり、待機するつもりだった。

だけど、空っぽのキャリーを持って、ただでさえそんな状況なのに、家に帰ったら、普段いるはずの小夏ちゃんがいないという現実に直面することになる。

いまの自分には無理なのは明らかだった。

だからわたしは、空っぽのキャリーを持って、電車に乗って、総武線に乗り換えて、とりあえず錦糸町に向かうことにした。

自分ではコントロールできないことへの怖さについて

小夏ちゃんを、看護師さんに最後に渡した瞬間は、看護師さんが術前の説明をするとき、小夏ちゃんがキャリーからすごく出たがっていたから、看護師さんが「じゃあもう、先に預かっちゃいますね」と言われて、わたしは「はい、じゃあお願いします」みたいなかんじのやりとりのなかで、ほんとうに、一瞬だった。

そんなふうにわたしは、電車に乗りながら、小夏ちゃんと最後に別れた、数十分前の光景を思い出していた。

わたしや、病院側にとっては、小夏ちゃんは1泊2日の手術で、預けられて、手術が終われば、また会えることがわかっている。

だけど、小夏ちゃんはどうか、と。

わたしたちはよく、「『いってらっしゃい』と見送ったのが、あの人との最後でした」とか「帰らぬ人となりました」とか「生きているときに○○してあげていたら」といった後悔の言葉を口にする。

でも、それは、実現可能だからこそ悔やまれることであって、日ごろの心がけ次第で、もう失ってしまったものは取り戻せなかったとしても、これらかのことは、学習したり、そうした後悔を繰り返さないように、自分自身でコントロールすることができる。

だけど、小夏ちゃんは、その「いってらっしゃい」だったり「ただいま」だったり、「ちょっとお留守番お願いね」だったり、「手術が終わって、あしたにはおうちに帰れるからね」というレベルのことから、もう二度と会えない、あるいは、帰らぬ人となってしまうレベルのことまで、ひとつひとつの、そうやって離別されることの意味だったりが、人間はコントロールできても、小夏ちゃんからはぜったいにコントロールするということができない(うまく言葉にするのがむずかしいのだけど)。

その自分ではコントロールできないことの怖さを想像したら、わたしは電車で、そこに自分の離別への不安も混じっていたことも確かだけれど、小夏ちゃんは、知らない場所でこれからなにをされるかわからない場所で、またこれまでの場所に戻ってこられるのかこられないのかもわからないという不確定要素しかない状況が、胸が引きちぎられるような気持ちになって、涙が止まらなくなってしまった。

手術が終わればまた会えることは、人間だけはそのスケジュールがわかっていることが、すごくずるく思えたのだった。

閉鎖病棟で身体拘束を受けたときの経験がフラッシュバックした

同時に、自分自身が、精神的に不安定だった若いときに、精神病院の閉鎖病棟に入院させられて、外側からしか鍵があけられない真っ白いなにもない部屋で、身体拘束をされた経験を思い出した。

なぜなら、そのときの小夏ちゃんがかかえているだろう怖さ(もちろん、自分以外のものが、こういう怖さを抱えているだろうと想像すること自体は、実に身勝手なことだろうと思っている)と、重なったからだ。

閉鎖病棟のスタッフからしたら、身体拘束させて意識レベルを下げる薬を強制的に投与したら、数日くらいしたらそのうちおとなしくなるから、そうしたら鍵を開けて、解放してあげよう、という都合なり、スケジューリングというか見通しがわかる。

だけど、わたし(患者)にとっては、初めてのことで、勝手に意識レベルを下げる薬を投与されて、看護師4人がかりとかでいきなり手足を拘束させられて、おむつをはかされて、意識レベルを下げさせられていたって、記憶や意識は鮮明で、いまもトラウマになるくらいに焼き付いていて、ナースコールもない、外側から鍵を開けてもらえるのをただ待つのみでなにもできないーー自分ではなにひとつコントロールできない丸腰で非対称な状況だった。

そんなことも思い出したら、小夏ちゃんと別れたときの、あの不安そうな小夏ちゃんの顔は、今回だけじゃなくて、普段、わたしやMさんが、「ちょっと出かけてくるね」というときだって、人間が人間都合で「ちょっとお留守番お願いね」と言っているときだって、人間側がすぐに帰ると思っていても、いつ帰ってくるのか、もしかしたら一生帰ってこないんじゃないかという不安も常にもしかしたらはらんでいたのかもしれないし、もっと普段から鮮明に焼き付けておくべきだったのではないかと反省をした。

たまに帰る時間が遅くなって、日が暮れてしまって、真っ暗になっていく部屋で、小夏ちゃんをひとり取り残してしまったこともあった。

それはわたしが窓もなく、真っ白な壁だけがあって、時間もわからないような閉鎖病棟でただ、真っ白な壁しか眺められないときのような経験と似ていなかったか。

それはわたしにとっては非日常だったとしても、それを人権侵害と言って争われることもあるけれど、犬にとってはずっと侵害されているとみることもできるというのに。

避妊手術の「メリット」とは

避妊手術は、繁殖行動を抑制することができるほかにも、子宮と卵巣を摘出することで、病気を未然に防ぐことができる。

だけどそれは、人間と共生することにともなって生じる不都合であって、人間側の都合に犬が合わせてあげるためのものであって、人はなんの疑問ももたずに、当たり前のように、「避妊手術は『メリット』がある」なんていうけれど、<ただし、人間にとってのメリットだけどね>と、もっとトータルに、「メリット」について考えて避妊手術の決断にいたっている人は、この世の中には果たしてどれだけいるのだろうかと思うことは多い。

わたしとMさんは、その「メリット」について、考えたほうだとは思う。それでも、わたしは、虚空のキャリーを抱えたまま、電車で、ほんとうに避妊手術なんて人間の都合で勝手なことをして、ほんとうによかったのだろうかと、泣きながらMさんにLINEで自問自答系のメッセージを送った。

「これからも長く一緒に幸せで生きていけるように」

Mさんから返ってきたメッセージは「避妊手術をめぐっていまこの瞬間にも自分たちがいろいろ考えたこの経験を、われわれが無駄にしないことだね」というようなことだった。

やりとりしながら、最終的に<小夏ちゃんが、わたしたちと一緒にこれからも長く生ていくために、小夏ちゃんにがんばってもらうことにした>ということが、今回の避妊手術について、自分たちなりに出した「メリット」だった。

だから、がんばった小夏ちゃんが、わたしたちがそのメリットへの意味づけや、虚空のキャリーを抱えながら悩んだ後ろめたさや、Mさんの言い方だと「十字架を背負い続ける」ことについて、忘れてしまった瞬間、それは小夏ちゃんにたいする裏切りになる。

「人間の都合に合わせてがんばったのに、それはないよ」というような仕打ちをこれ以上受けさせないためにも、あるいは、こんな家に来て間違いだった、などと思われないためにも、言葉で言うのは簡単だけど、全力で幸せにしてあげることだと思った。

節目を迎えた「チーム小夏」

「そのための、きょうは、節目の日だね」とMさんと言った。

小夏ちゃんをお迎えしたことし6月18日、自分たちのことを、わたしたちは「チーム小夏」と言って、3人で手を取り合って決意表明した。

我が家に初めてやってきた小夏。「チーム小夏」と言って3人で手を取り合った

その、「チーム小夏」が、さらなるパワーアップへの節目を迎えた日。

わたしはMさんに、「小夏ちゃんを幸せにするためにも、まずはわたしたちがいつまでも健康でいて、幸せでいようね」とも伝えた。なぜなら、チーム小夏だから。誰かに負担が強いられて、その負担のうえに成り立つチームはありえないから。

手術が無事終了し、面会へ

夕方、手術が終わって、仕事がないわたしだけだけど、面会に行った。

まだ麻酔で意識がもうろうとしていて、わたしが誰であるのかも、手を振っても、声をかけても、反応は鈍かった。

だけど、痛み止めの措置をされていても、術後はやはり痛いようで、もうろうとしながらも、うつろな目で、だけど全力で、痛さをクンクンとした声で訴えているのが伝わって、胸が潰れそうになった。

もうろうとしている

「十分だと思えるまで、ずっと一緒にいてあげてくださいね」と看護師さんに言われて、どれだけいただろう。痛いながらも、だんだんと寝息をたててうとうとしはじめたので、そのタイミングで、物音を立てずに静かに入院室を出た。

これからも幸せのかたちを作り続けていきたい

きょうはこれから夕方にも、お迎えに行く。

人間はまだ、「親ガチャ」と言うことができる。もちろん、自分も含めて親ガチャは生涯にわたって影を落とすわけだけど、そんな親ガチャすら親ガチャといえない小夏ちゃんのことを考えるといつも、うちに来て幸せだったかなと自問自答してしまう。

少なくともわたしは、いろんなひどい人がこの世の中にいるなかで、うちに来てよかったよ、小夏ちゃんは、ほんとうにラッキーだったよ、といつも思ってはいる。

だけど、それはわたしの気持ちにすぎなくて、小夏ちゃんの気持ちは、なにひとつわからない。

わからないけれど、これからも3人で、幸せのかたちを作り続けていければいいと思うのだ。


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