小夏ちゃんがいたから、この旅ができたということ
Mさんと小夏ちゃんと3人で旅に出かけてきた。
旅の理由はよくわからない。
わたしが旅に出たかったというのもあるし、旅にでようと言ったわたしに、Mさんが「うん」と言ったからというのもある。
いや、そうじゃなくて、前々から、もっと具体的に、寒くならないくらいの秋くらいのいい季節に、「小夏ちゃんと3人でレンタカー借りてドライブ行こうよ」って、「旅」なんてそんなかしこまったものではなくて、もっとカジュアルに、そういう風景をイメージしてたんだったっけ。
それを、実現させたのだった。
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けれども、誰かになにかを伝えるとき、そうやって理由はいつだってころころと変わってしまう。
しっかりしたものを伝えなきゃ、て。
「小夏ちゃんに初めての『旅』をプレゼントしてあげたくて、この日のためにがんばっていつもの何倍以上も働いて、がんばって600㎞近くの長距離を運転して、旅先ではたくさん奮発しちゃったから、それからもバイト7連勤とか入って、毎日労働労働労働労働……だよ」とか。
もっともらしい、自分が旅にいく身分としてふさわしい者であろうという理由を探してしまう。
豪遊したいんではなくて、ほんとうに貧乏で(Mさんもまた無職になってしまったりとかして)、つつましく暮らしているけど、がんばってお金稼いで行ってるわけだから、誰もなにも文句言われたくないな、みたいに。
実際に誰かになにかを言われたわけではないのに、そんなふうに、わたしはたくさんの理由でいつも自分をがちがちにしてしまう。
がちがちになってものをふりほどくと、ただただ、ふわっとしているだけにすぎないというのに。
そんなにわか作りの、それを体験してもしなくても、ゴーストライターのようになんでも創作できてしまうような「理由」とちがって、旅をしながら、ほんとうに旅をしたから思ったことがある。
それは、小夏ちゃんがいたから、この「旅」ができた、という、とってもシンプルなのだけど、ただそれだけの、当たり前のことだった。
◇
20歳代前半、わたしは「百万円と苦虫女」という、蒼井優さん主演の、バイトで100万円貯まるごとにひとりで引っ越しを繰り返す「苦虫女」のロードムービーを見て、人生観が変わるほど衝撃を受けた。自分がほんとうにやりたかったのはこういう生き方だった、と。
それで、旅をするように暮らすことへの憧れを経て、ほんとうにそれを実現した30歳をちょっと過ぎたころには、旅は、自分の日常そのものになっていた。
ずっとそんなふうに生きていけると思ってきたし、そうやって根なし草みたいに、自分はふわふわしていくんだろうなと思っていた。
だけど、ここ数年は、年々出無精になってきていて、旅をする人生なんて、めんどくさくなっている、あの頃からは180度真逆の自分がいた。
めんどくささも通り越して、旅なんてもうこりごり、ととどめを刺した出来事は去年の夏、八ヶ岳の山麓で、日本ワインのリテールやカフェの接客をしに住み込みで働いた(いわゆるリゾートバイト)ときのことだった。
そこで当時、猛威をふるっていた新型コロナウイルスのデルタ株に感染した。病床も療養ホテルも逼迫しているという理由で、感染を隠してホテルをやどかりのように転々とせざるをえなかった(診断した医師からそう指示されるくらい、当時は逼迫した状況だった)。
肺炎で酸素が80を下回ったこともあり、最終的には運良く救急搬送してもらえて一命は取りとめたけど、思い出すだけで、もう余計な場所にちょろちょろ出歩くまいという気持ちになった。
慣れないところにいくと体調を崩して免疫力も落ちるし、おうちがいちばんいい、住み慣れた土地がいちばんいいと、それがまずは基本なんだろうけど、やっとその感覚まで行き着くことができたともいえる。
だから、また旅に出るというのは、日帰りならいいのだけど、どこかに泊まるということは、あのときのトラウマや、うんざりするほど長すぎる旅という日常を、再体験しにいくことにしかならなかった。
もう二度と、ひとりでどこかに泊まりたくないと思っていた。
◇
前置きの説明がとても長くなってしまったのだけど、あらためて言うと、わたしは、小夏ちゃんがいたから、また旅をすることができたんだなと、思った。
小夏ちゃんがいなかったら、Mさんと2人だけだったら、いまは辛抱の時期だから、毎日節約して暮らそう、と思ってどこにもいかなかったと思う。
だけど、小夏ちゃんというあたらしい家族も増えて、わたしは、いつか3人で、レンタカーを借りて、どこでもいいから、ただただどこかをドライブして、ロードムービーみたいな旅したいと、そんな夢を思い描いていた。
その夢と、旅先でコロナにかかって、泊まることがトラウマになってしまったわたしの過去のエピソードとは、まったく関係ないことだった。
小夏ちゃんがいたから、Mさんがいたから、出会えた世界、景色、できたこと、行けた場所、考えられたことがある。
それらは当たり前で、さらっと通り過ぎてしまいそうなことかもしれないけれど、そんな、誰にも言い訳する必要もない、誰からもなにも言わせない、自分にとっての確かなことが、旅をした先にあった。
「確かなもの」「確かなこと」がほしいと、普段人は常にそうやって言いたがるけど、自分も。誰かとの約束をかならず取り付けたいとか、資格や肩書き、地位がほしいとか、お金がほしいとか……。それは、なにかをする前から、見当がつくことだから、とてもつまらない。
だけど、今回の旅で見つけた「確かなこと」は、自分のなかの「芯」のようなところに、確実にこれからもいてくれる、そういうたぐいの確かさがあるような気がする。
そんな「確かなもの」を、自分のなかで育てていければいいな。