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秋だからかなんでもないことをなんでもなく語る

「持つ」ということはなんなんだろうか、ということをふと思った。

先日、<わたしは、東京でいろいろなものを持ちすぎてしまった。だから東京を手放して、ある場所に住むことを決意した>という人の話を聞いた。

それと同じ時期、また別の人が<あの人は、とてもたくさんのお金や肩書きを持っていたけど、全然幸せそうではない。幸せと持つものは、比例しないんじゃないかな>と話していた。

それぞれ、別の人の話だけど、同じ「持つ」ということについての話だったので、ばらばらになっていた記憶が、その瞬間、ちがったふたつの話が、わたしのなかでくっついたのだった。

前者の、<東京でーー持ちすぎてしまった>という話を聞きながらわたしは、「私は」と主語で語って、「決意した」と自分主体の能動的な意思でありながらも、「持ちすぎてしまった」という点については、どうしても人と比べざるを得ないことだよなあ、という、聞きながら引き裂かれていくような感覚をおぼえた。

カメレオン人間でふわふわしている自分も、なにかの拍子に思うのだ。「持ちすぎてしまったなあ」という感覚を。

だけど、それは、自分にしてみても、誰と、何と比べて持ちすぎてしまったなあ、という感覚なのか、結局は、自分がそう思ったと感じていて、自分主体で、なにかを手放すことを決め、なにかを得るという行動を選択して、それが自分の選択などと思って、なにかを駆り立てたとしても、

結局は、自分がこれまで直接なり間接なり出会った経験から総合的に勘案して、作り出した架空の何かや誰かと比べて、持ちすぎてしまった、とか、まだ持ててないとか、場所や環境が変わってもこれからもずっと思ったりするんだろうなあ、というようなことを思うのだった。

たぶん、「持ちすぎてしまったから」手放しても、きっと、そうやって「持ちすぎてしまう」分だけ手放すような人は、きっと新しくできた余白に、同じかそれ以上のものを、また「持ちすぎてしまう」のだろうなあ、なんて、そんな自分のようなことでもあり、誰かのことなんだろうな、ということを思った。

持ちすぎてしまう人は、手放したとしても、持ちすぎている状態でないと、安心していられないのだ。それは少なくともわたしだという話なのだけど。

持ちすぎていないと安心できない性(さが)なのに、それに矛盾するように、同時に、たくさん持っているという状態と、幸せも比例しないことも、日頃から体感的に理解していて、やっぱそうなんだな、という感想を、後者の話のことを重ね合わせて、思ったのだった。

心から、自分のなかから幸せがわき出ているときって、なにも持っていないときが多い気がする。

と、寒くなって、ストウブでシチューをことことと煮込みながら、そんなことを思ったのだった。

物理的に、表面的には、「持っている」ものが仮にあったとしても、自分からわきで出てくる幸せのようなぽかぽかとした存在というものは、それらの持っているものとは、またくもって関係なくて、別の次元のものを、わたしはそのとき持っているんだろうな、と思ったのだった。

そんな、自分の体からわき出る幸せを感じると、「持ちすぎてしまったもの」について考えることが、とても陳腐で価値のないもののようにも思えてきてしまう。

だからといって、だけれども、わたしは、持っていなくたって幸せでいられる、持ちすぎはよくない、なんて結論を導き出したいわけではない。

持ちすぎてしまったことを含めて、持っているからこそ、そういうインフラや環境があって、はじめて、自分からわき出てくる幸せが生まれてきたんじゃないかと、わたしは思う。

だから、自分が持ったものについて、把握したり検証したりしていくことは、現実社会を生きていくうえでは、絶対に必要なことだ。

持つことによって、ひとつひとつ積み上げてきたものが、いま自分が<そう感じる>ことを作ってきているのだと思う。

だから、わたしなりの、冒頭の前者と後者の人の話などを聞いて思った結論をまとめると、「持つ」ことを恐れない、ということだと思う。

「持った」ものは事実として、それはそれで、いいのではないかと思う。

別にそれで、「持ちすぎてしまった自分」なんて物語の主人公みたくして、そんな後ろめたく思ったり、卑下したり、ジャッジしたり、

「持ちすぎても幸せになれない」などと過小評価して、卑屈に語るようなことって、したい気持ちもすごくわかるけど、なんかさいきん、いちいちそんな持ってるものを意味付けして考えなくてもよいのかも、などと思うようにもなっているなあということに気づいた。

なんか、そうやって、いちいち語ることへの違和感だったり、一見、認識としては正しそうだけれど、そこまで本質を見つめることへの、本質としては正しいけれど、生きていくにはちょっと歪んでしまうような、そういうこと。

なんかうまく言えないけれど。

そういう発想は、すごくがんばりすぎた後に、どっと自分を襲う虚無なときとかに、ふと我に返って、おちいったりして、内省したつもりになったときとかに、何度も出てくるものだった。自分にとって。

だけど、そういう虚無的思考というか、冷めた発想って、たまには必要だけど、それだけで、虚無になると、どんどんぱさぱさした鶏胸肉みたいになってくようで、急に超ピリ辛料理が食べたくなったり、揺り戻しが強くなって、そのたびに、自分ってほんとあてにならないなと、自分で自分がいまだに信じられなかったりもする。

いい塩梅で、ときどきやってくる、虚無ゆえに、冴えているように自分を思わせてしまう、ふとやってくる発想には、ときどきは気をつけたいな。

秋だからね、お気をつけあそばせ。


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