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書くことへの執着〜「苦しい」から「楽しい」へ

ああ、間があいてしまった。
前回「2022年春にハマってること」なんて書いてたのに、夏を書かないまま秋になってしまった。

間があくと、どんどん再開しづらくなってしまいますね。

文章を書くことの手枷足枷

筆が重いのは、私が文章を書くことに対して気負いすぎているからだ。
「書く」ということをあまりに重要視しすぎているからだ。

素敵な文章を書きたくて、でも文章力が追い付かないし、自分が書いているものがつまらなく感じて、理想と現実との落差に書く気が失せてしまう。
気軽にだったらいくらでも書けるけど、「そんなの日記かツイッターに書いとけ」みたいな気持ちがある。

どんな文章が書きたいのか、自分が書くことを通してどうなりたいのかも、まだハッキリしない。
ただ書いたものが残ればいいのか、
たくさんの人に読んでもらいたいのか。
書くことを仕事にしたいのか、
書いて何者かになりたいのか。
共感してもらえるような真摯な文章も書きたいけど、
圧倒的な文才とセンスで読者を笑わせる文章にも憧れてる。
テクニックを身につけたいけど、
自分らしく表現することも追求したいような。

最近はネットやSNSを見ていても、ちょっと注目を集める投稿があると必ず誰かが揚げ足とりをしているし、ささいなことで誰かが炎上しているし、お互い自分が正しいと固く信じている人たちがあちらでもこちらでも言い争いをしている。
そういうのを毎日のように見ていたら、自分の気持ちや考えを公の場所で書くことが怖くなってしまった、ということもある。

それでもやっぱり文章を書きたい

上記の悩みは、依然として私が文章を書くうえで手枷足枷になり続けている。

でもやっぱり、書くことに対する情熱ーー執着という言葉の方がふさわしいかなーーはなくならない。

こうして再びnoteを更新するきっかけになったことの1つは、三浦しをんさんのエッセイを読んで、なんだか気持ちが楽になったこと。

三浦しをんさんと言えば、20代で直木賞受賞(現在は選考委員)、その後も本屋大賞受賞などヒットを飛ばす大作家さんなのだが、しをんさんのエッセイは、とっても自由なのだ(と私は感じる)。

今、「悶絶スパイラル」(2008)という日常エッセイを読んでいるのだけど、そのうちの一篇「いいかげん大人になりたいものだ」は、アパートの下の部屋の住人とすれ違ったので挨拶したら無視され、家に帰って四股を踏んで鬱憤を晴らすエピソードから始まり、トイレに行ったらシモの毛に白髪への過渡期にある毛を発見して年を感じ、いろいろ考えるのも面倒だからパンツをあげて近所の居酒屋行ってビール飲んだ、というエピソードで締めくくられている。

な、なんて自由なんだ…!?!?
「こんな風に、読む人にどう思われるか…なんて臆することなく、自分の行動や思想を自由に書いていいんだ」と勇気をもらった。

自分の文章がつまらない、気に食わないと感じてしまうのは相変わらずだけど、それも書き続けることでしか解決できないんだと、本当はわかっている。

文章を書いて何を目指すかもまだ決められないけど、それも書いていくうちに見つかっていくものなんだと思う。

書きながら悩めばいっか

noteを始めたのは、いしかわゆきさんの「書く習慣」を読んだことがきっかけだった。
書きたいのに書けずに足踏みしてた私の背中を押してくれた本。
もう一度読み直してみよう。

書きたいことはたくさんある。
ドラマの感想、日々のニュースで考えたこと、自分のこと。
人としゃべることが減ったから、書くことで頭の中のいろいろをアウトプットしたい。
そうしたら、自分の中の風通しが良くなる気がしてる。

完璧主義から卒業する時がきた。
理想を求めるあまり、書くこと=苦しいことになってしまっている。
自分は何かを考えたり、文章を書いたりするのが好きなんだって気持ちを思い出して、大切にしよう。
学生時代、友達ととりとめないお喋りをしていたあの時のように、肩の力を抜いて、等身大の私を書いていこう。

悩みながらでいっか。
文体も方向性も、今はブレブレでもいっか。
下手くそでもいっか。
人の目を気にしすぎなくてもいっか。
まだ何者でもないんだし。

書くことが、また私の毎日を彩り支えてくれることを願いつつ、またボチボチ更新します。

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