マーラー - 「第九のジンクス」への挑戦
交響曲第9番の歴史的背景と「第九のジンクス」の起源
交響曲の歴史において、第9番という作品には一種独特の重みが伴ってきた。これは、ベートーヴェンが傑作たる交響曲第9番を作曲後、それ以降の交響曲に着手することなくこの世を去ったことが発端となっている。ベートーヴェン以降、シューベルトやドヴォルザークといった著名な作曲家たちも9番目の交響曲を作曲後、もしくは作曲中に亡くなっている。こうした事例の積み重ねから、「第九のジンクス」と呼ばれる迷信が音楽界に広まり、作曲家たちの間に一種の心理的障壁を築いていった。
「第九のジンクス」がいつ頃から明確に意識されるようになったのかは定かではないが、19世紀後半には既に音楽家たちの間で語られるようになっていたと考えられる。ロマン派以降、交響曲は作曲家の内面を表現する重要な手段となり、大規模な作品を完成させるには、肉体的にも精神的にも大きなエネルギーを要した。ベートーヴェンが打ち立てた「英雄的」な交響曲像は、後世の作曲家たちに多大な影響を与え、同時に重圧も与えていたと言えるだろう。 そのため、9番目の交響曲は作曲家にとって、自身の創作力の集大成であり、同時に一つの限界点をも示唆するものとして捉えられるようになった。マーラーもまた、この歴史的背景と「第九のジンクス」を強く意識していた作曲家の一人であった。
ベートーヴェン、シューベルト、ドヴォルザークらの「第九」と、マーラーへの影響
マーラーが「第九のジンクス」を意識する上で、ベートーヴェンはもちろんのこと、シューベルトやドヴォルザークの存在も無視できない。ベートーヴェンの交響曲第9番が、歓喜の歌を導入した革新的な作品であったことは既述の通りだが、シューベルトの交響曲第9番「ザ・グレート」もまた、ロマン派交響曲の金字塔として高く評価されている作品である。マーラー自身、シューベルトの「ザ・グレート」を非常に高く評価しており、その影響はマーラーの交響曲にも見ることができる。
ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」もまた、マーラーに影響を与えた作品の一つと考えられる。アメリカで作曲されたこの作品は、ボヘミアの民族音楽の影響を受けながらも、新しい世界への希望に満ちた響きを持っている。マーラーはドヴォルザークと親交があり、彼の音楽を高く評価していたことが知られている。
これらの作曲家たちが9番目の交響曲を作曲後、比較的短期間でこの世を去ったという事実は、マーラーにとって大きな重圧となったであろう。特に、ベートーヴェンの「第九」が持つ圧倒的な存在感と、シューベルト、ドヴォルザークの作品が持つ完成度の高さは、マーラー自身の創作活動にも影を落としていたと考えられる。彼はこれらの巨匠たちの「第九」を乗り越え、自身の「第九」を完成させるというプレッシャーと常に闘っていたに違いない。
50代を迎えたマーラーの健康状態と死への意識の変化
1907年、マーラーを取り巻く状況は大きく変化していく。まず、愛娘マリアが猩紅熱でこの世を去るという悲劇に見舞われる。この出来事はマーラーに大きな精神的打撃を与え、死への意識をより強くさせる転機となった。
さらに、マーラー自身も健康問題を抱え始める。心臓弁膜疾患と診断され、医師からは作曲活動を制限するように忠告を受ける。死の影が自身にも迫っていることを実感したマーラーは、残された時間の中で何を成し遂げるべきか、自らの芸術と真摯に向き合うことになる。
娘の死と自身の病、この二重の苦悩は、マーラーの創作活動に大きな影響を与えた。それまでのロマンティックで壮大な作風から、より内省的で死の予感に満ちた作風へと変化していく兆しが見られるようになる。限られた時間の中で、自らの芸術を昇華させようとする強い意志が、マーラーの晩年の作品には色濃く反映されていると言えるだろう。
「大地の歌」(1908年)を「歌曲付き交響曲」と呼ぶことで「第九のジンクス」を回避
マーラーは、交響曲第9番とほぼ同時期に「大地の歌」を作曲している。この作品は、中国の唐代の詩に曲を付けた歌曲集であり、編成は大規模なオーケストラと声楽を必要とする。内容的にも、規模的にも、そして音楽的構成からも、実質的には交響曲と呼べるほどの規模と完成度を備えている。
にもかかわらず、マーラーは「大地の歌」を「歌曲付き交響曲」と呼び、番号を付けなかった。これは「第九のジンクス」を意識し、9番目の交響曲を作曲したという事実を回避しようとしたためではないかという説がある。
実際、マーラーは「大地の歌」の作曲中に、妻アルマに「これで私はジンクスから逃れられた」といった内容の手紙を送っている。この手紙の存在は、「第九のジンクス」がマーラーの創作活動に大きな影響を与えていたことを示す有力な証拠と言えるだろう。
また、「大地の歌」には、死や別れといったテーマが色濃く反映されている。これは、娘の死や自身の病といった現実的な死の影に怯えていたマーラーの心境を反映していると考えられる。彼は「大地の歌」を通して、死の恐怖や人生の儚さといった感情を音楽で昇華させようとしていたのかもしれない。
「第九のジンクス」を回避するために「大地の歌」を交響曲と名付けなかったという説は、必ずしも確証されているわけではない。しかし、マーラーが「ジンクス」を強く意識していたこと、そして「大地の歌」が実質的に交響曲と呼べるほどの規模と内容を持っていることを考えると、この説は一定の信憑性を持っていると言えるだろう。
交響曲第9番(1909年)作曲当時のマーラーの心境と創作の苦悩
1909年に完成された交響曲第9番は、マーラーの心境と創作の苦悩を如実に反映した作品と言える。前述の通り、娘の死や自身の病といった現実的な死の影に怯える一方、「第九のジンクス」という心理的な重圧にも苛まれていたマーラーにとって、この作品の作曲は困難を極めたであろう。
交響曲第9番は、これまでのマーラーの作品とは異なる静謐さと諦念が漂う作品である。第1楽章では、不協和音や断片的なメロディーが不安定な情緖を表現し、第4楽章は静かに消え入るように終結する。これは、死の予感や人生の儚さといったマーラーの心情を反映していると考えられる。
創作過程においても、マーラーは苦悩していたことが伺える。スケッチや修正の痕跡から、マーラーが何度も推敲を重ね、葛藤しながら作曲を進めていたことがわかる。特に終楽章は、マーラーが「死の受容」を表現しようとした部分であり、作曲に最も時間を費やしたとされている。彼はこの作品に自身のすべてを注ぎ込み、自らの死と向き合いながら、音楽によるカタルシスを得ようとしていたのかもしれない。
また、マーラーは迷信深く、様々なジンクスを気にする性格だったと言われている。そのため、「第九のジンクス」は単なる迷信ではなく、マーラーにとって現実的な脅威として心に重くのしかかっていた可能性が高い。このプレッシャーが、彼の創作意欲を掻き立てる一方で、精神的な負担を増大させていたことは想像に難くない。結果として、交響曲第9番は、マーラーの晩年の心境と創作の苦悩が凝縮された、美しくも悲痛な傑作となったのである。
交響曲第10番(1910年)への着手と未完に終わった背景
「大地の歌」で「第九のジンクス」を回避したと考えたマーラーは、1910年に交響曲第10番の作曲に着手する。この作品は、前作の交響曲第9番とは対照的に、より激しい感情表現と複雑な構成を持つスケールの大きな作品となる予定だった。しかし、マーラーは完成させることなく、この世を去ることになる。
第10番の作曲当時、マーラーの健康状態は悪化の一途を辿っていた。心臓の病は進行し、創作活動に費やせる時間は限られていた。それでもマーラーは、残された力を振り絞り、作曲に没頭した。現存する草稿やスケッチからは、彼がこの作品に並々ならぬ情熱を注いでいたことが窺える。
しかし、1911年、マーラーは感染性心内膜炎を患い、50歳という若さでこの世を去る。第10番は、第1楽章から第3楽章、そして第5楽章の断片と、第4楽章にあたる「煉獄」のみがほぼ完成された状態で残された。他の楽章はスケッチやメモ書きの状態であり、演奏可能な形ではなかった。
マーラーの死後、妻アルマは友人の作曲家たちに第10番の補筆を依頼するが、最終的に完成版として世に出たのは、1960年代にイギリスの音楽学者デリック・クックが校訂した版である。クック版以外にも、複数の作曲家による補筆版が存在するが、いずれもマーラーの真意を完全に反映しているとは言い難い。
未完に終わった交響曲第10番は、マーラーの遺志を伝えるとともに、彼の死によって失われた可能性を象徴する作品と言えるだろう。もしマーラーがもう少し長く生きていたら、この作品はどのような形になっていたのだろうか?その答えは永遠に謎のままである。
「第九のジンクス」に対するマーラー自身の言及や、周囲の人々の証言
マーラーが「第九のジンクス」について具体的にどのような言葉で言及していたか、明確な記録は少ない。 作曲家自身の内面に触れるデリケートな話題である上、迷信を公言することは、世紀末ウィーンの知識人社会においては、必ずしも好ましい振る舞いとは見なされなかった可能性もある。
しかし、前述の通り、妻アルマへの手紙の中で「大地の歌」によってジンクスを回避できたと安堵する言葉を残していることは、マーラーが「第九のジンクス」を少なからず意識していた傍証と言えるだろう。また、アルマの証言によると、マーラーは交響曲第9番の完成後、「これで私は9番の呪いを克服した」と語ったとされる。ただし、アルマの回顧録は、彼女自身の主観や記憶の歪みが含まれている可能性も指摘されており、どこまで信憑性があるかは慎重に見極める必要がある。
周囲の人々の証言からも、マーラーが「第九のジンクス」を意識していた様子が伺える。例えば、マーラーの友人であり、指揮者としても彼の作品を数多く演奏したブルーノ・ワルターは、マーラーが「第九」の作曲中に不安を抱えていたことを証言している。ワルターによると、マーラーは「9番目の交響曲を作曲した作曲家は、もう長生きできない」と漏らしていたという。
こうした証言や状況証拠から、マーラーが「第九のジンクス」を意識し、不安を抱えていたことはほぼ確実と言えるだろう。彼が「大地の歌」を「歌曲付き交響曲」と呼ぶことでジンクスを回避しようとしたのも、そうした不安の表れだったと考えられる。 死の予感と隣り合わせの晩年において、マーラーにとって「第九のジンクス」は、単なる迷信ではなく、現実的な恐怖として重くのしかかっていたに違いない。
「大地の歌」と交響曲第9番、第10番における音楽的特徴と共通点
マーラーの晩年の作品である「大地の歌」、交響曲第9番、そして未完の交響曲第10番には、いくつかの音楽的特徴と共通点が見られる。これらの作品は、マーラーの死生観や人生観が反映された、深遠で内省的な世界を描いている。
まず、これらの作品に共通する特徴として、調性の曖昧さが挙げられる。従来の調性音楽の枠組みから逸脱し、複数の調性が交錯したり、無調的な響きが用いられるなど、不安定で流動的な音楽語法が特徴的である。これは、マーラーの不安定な心境や、死への意識の変化を反映していると考えられる。
また、旋律の断片化も共通の特徴である。長大な旋律ではなく、短いフレーズが断片的に現れ、消えていく。これは、人生の儚さや、記憶の断片といったイメージを喚起させる。
さらに、これらの作品には、静謐さと諦念が漂う雰囲気も共通している。マーラーの初期の作品に見られたロマンティックな情熱や希望に満ちた表現は影を潜め、静かで内省的な表現が中心となる。これは、死の受容や、人生の終焉といったテーマと深く関わっている。
「大地の歌」と交響曲第9番、第10番には、それぞれ異なる楽器編成や構成が採用されているものの、音楽的な共通点は少なくない。「大地の歌」の第6楽章「告別」は、交響曲第9番の終楽章と同様に、静かに消え入るように終結する。また、交響曲第10番の断片からも、前2作と同様の調性の曖昧さや旋律の断片化といった特徴が確認できる。
これらの作品は、マーラーが自身の死と向き合い、残された時間の中で何を表現しようとしたのかを示す貴重な証言と言えるだろう。 音楽を通して、死の恐怖や人生の儚さといった感情を昇華させようとしたマーラーの晩年の創作活動は、後世の作曲家たちに多大な影響を与え、現代音楽の発展にも大きく貢献することになる。
マーラーの死後、「第九のジンクス」がどのように解釈されてきたか
マーラーの死後、「第九のジンクス」は、単なる迷信として片付けられるのではなく、作曲家たちの創作活動に影響を与える文化的現象として捉えられるようになった。マーラー自身の死が「ジンクス」の信憑性を高めた側面は否めない。彼の交響曲第9番の完成後、そして未完に終わった交響曲第10番の存在は、「第九のジンクス」の呪縛を強く印象づけることになった。
20世紀以降、多くの作曲家がこの「ジンクス」を意識しながら創作活動を行ってきた。ショスタコーヴィチやブリテンといった作曲家たちは、9番目の交響曲を作曲する際に、マーラーの先例を意識し、様々な形で「ジンクス」に対峙した。例えば、ショスタコーヴィチは、交響曲第9番を比較的軽快な作風にすることで「ジンクス」の重圧を回避しようとしたと解釈されている。ブリテンは、オペラや管弦楽曲など様々なジャンルで創作活動を展開し、特定の形式に囚われることなく、9番目の交響曲に番号を付けない選択をした。
一方で、「第九のジンクス」を単なる偶然の積み重ねと考える向きもある。統計的に見ると、9番目の交響曲を作曲後に亡くなった作曲家は、必ずしも多いとは言えない。ベートーヴェン以降、ロマン派の作曲家たちは、より大規模で複雑な交響曲を作曲する傾向があり、その結果、創作活動に肉体的にも精神的にも大きな負担がかかるようになった。そのため、9番目の交響曲の完成が、作曲家の体力や精神力の限界と重なるケースが多かったという解釈も可能である。
いずれにせよ、「第九のジンクス」は、音楽史における興味深い現象であり、作曲家たちの心理や創作活動に影響を与えてきたことは間違いない。マーラーの死後、この「ジンクス」は、単なる迷信としてではなく、文化的な文脈の中で解釈され、後世の作曲家たちに様々な形で影響を与え続けている。現代においても、作曲家が9番目の交響曲を作曲する際には、この「ジンクス」が話題に上ることがあり、音楽界における一種の伝統として、あるいは創作の刺激として機能していると言えるだろう。