他人の考え方の様式とそれが分かってしまうと悲しいという話

他人は自分と異なる考え方の様式(パターン)を持っている。それが自分のものとあまりにかけ離れていると辛くなるし、自分と似すぎていると悲しくなる。

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他人が私に対して何か私の感情を方向付けるようなアクションを起こすとする。分かりにくいから、"他人が私を喜ばせようと私が喜ぶような言葉を発する"とする。この時私は、他人が"私を喜ばせようとして"その言葉を発したのだと分かってしまう。そしてそのことが悲しい。なぜ悲しいのか。

i) 他人は私が他人が私のことを喜ばせようとして言葉を発したことに気がつかないと思ってその言葉を発している。だから悲しい。

ii) 他人は私が他人が私のことを喜ばせようとして言葉を発したことに気がつくか否かの是非に関わらずその言葉を発している。だから悲しい。

iii) 何も考えていない(上記iiの"是非"にあたる問いすら頭に浮かばない)。だから悲しい。

他人が直接的に指示という形で私に何か命令するのならば、それはもう明確な分かりやすい一本のベクトルであって私はとても納得してしまうのだけれども、例えば、他人がしばしば行う、私を私が気づかないうちに他人の望むように動かそうというそういった一種の欺瞞が挿し挟まれたコミュニケーションに私は辟易してしまうのである。種が分かっている手品を見せられているような気持ちになってしまう。どうしたら良いのか。大抵の場合は相手の精神年齢を低く設定することで自分を納得させている。子供が大人に見せびらかす手品は可愛いから。ただ、実際は大人が子供のような駄々の捏ね方をして、しかもそれが他人にバレていないと信じ切ってしまっているので、これを直視するのはとてもつらい。悪いことにバレていることに気がつかず、他人がバレていないフリをして動いてくれていることにも気がつかないのだ。本当に。現実にこういう人はたくさんいる。あるいは大人というものの理想像が私の中にねじ曲がったまま確立されてしまっていてそう感じるだけかもしれない。最近はこう考えるようにしてる。多分これは正しい。皆疲れてしまうのだ。現実的な実際的な問題に少しずつ身を削られていって、いつの間にか自己を鑑みる判断力を失ってしまう。自分と他人の距離を測れなくなってしまう。そして、一度壊れたものは元には戻らない。どうかその崩壊が精神薬なり他者の介護により完璧な崩壊に到るまで少しでも遅れることを祈る。

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