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「頑張る」から「ユルめる」へ。選択する勇気

客観的なフィードバックをいただく機会に、全く違う場面で「頑張り屋」というフィードバックをたびたびいただきます。

ポジティブな意味合いでフィードバックをいただくので、当時はポジティブに受け取っていたのですが、最近、フィードバックの言葉を改めて見ていて、「私、頑張りがダダもれなの?」と愕然としました。

なんだか恥ずかしいやら、軽やかな理想像とは程遠い状態に居心地の悪さやら。そんな感情が出てきました(苦笑)
(フィードバックしてくださる方はポジティブな意味でくださるので、お言葉はありがたくいただいています。)

頑張り屋な私の正体

頑張りがダダもれしているということは、「力が入りすぎているのでは?」と思っています。自然体ではなくて、何か鎧のような堅いもので自分を矯正しているようなイメージ。

そんなことを考えていたときに、頑張らないことがそもそも怖いということに気づいたのです。そんな風に思っている方多いのではないでしょうか?

例えば、体が健やかであるために、健康に配慮した食事作りや毎日の筋力トレーニング、居心地のいい家づくりのために毎朝の掃除、理想のキャリアを築くための勉強や読書。

少しでも自分も家族も心身が健やかで生き生きと生きていくために頑張ってきた。これを手放すと、理想が全て手に入らなくなるのではないか、という不安があるんです。(強い執着心にも気づくという始末)

最初は、楽しみながらやっていたものの、いい結果に繋がると、それをやらないと過去の自分に戻ってしまう、やり続けなければ!という強迫観念にも近い状態で日々の選択をするようになっていたんです。これが私の頑張りの正体でした。

自分を満たすためにやっていたのに、しんどさが大きくなっている。なんのために私はこの選択をしているのかよくわからなくなってきました。

そんな気づきを得て、堅い鎧をとってゆるませるために「心地の良い選択」をしてみようと思ったのです。


真の心地良さで選択する難しさ

しかし、心地良さで選択することは私にとって難しいものでした。心地良さで選択したつもりが恐怖心を克服するための選択であることが多かったのです。

最近、読みたい漫画があるのですが読む時間が取れないのです。時間がないというよりも正しくは、他にも読みたい本があり、本の方が知識になり成長につながるから漫画を読む選択ができないのです。

エンタメをただ楽しむことに罪悪感があることに気づきました。

罪悪感を感じたくないから本を読むことをしている。罪悪感という不快感情を味わいたくないからの選択であり、心地がいいわけではなかったのです。

漫画を読むと罪悪感、本を読むとゆるまない緊張状態が残る。何を選択して不快感情がついてくるのです。なんて厄介な私…

ユルませる

自分をゆるませようとすると、停滞する怖さ、停滞だけならまだしも後退するのではないかという不安、社会に必要とされなくなるのではないかという不安、社会のために必死で頑張っている人がいるのに心地いい選択をすることの肩身の狭さ、
そんな感情が出てきます。

しかし、このまま、理想を追い求めて頑張り続けても、一つ叶えばまた新たな理想が生まれ終わりなき戦いに疲れていく。そんなことが起こりそうな予感しかしません。

私は今、戦っていたのです。

自分の理想は、自由な選択、健康的な体、人とのつながりを得られている状態。今、まあまあ叶っているけど、でもまだ発展途上という感覚。
だから、頑張らなければ!と思っていたんです。

しかし、おそらく、「ここでいい」なんて状態にはならないのだと思います。

今の環境に幸福感が生まれても、ずっとこの状態がでいられることを祈るばかりになっても苦しい。

だからこそ、戦わずして、好奇心と楽しみを大切にしながらながら選択できるようになっていきたい。このような思いに至ってます。

まだ、どうなるのかわからないのですが、自分が力まず、楽しみながら選択していく方法を楽しみながら模索してみたいと思っています。

まずは、罪悪感や恐怖が生まれたら、「ちょっと今日はユルむ選択をしたいんだ」と自分に言ってあげたいと思います。(←なんだかこれも堅くて真面目だけどこれもまた私。)


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