自分とはなんぞや②

生後8ヶ月の娘と実家へ帰って毒母と生活が始まった。日本料理の板前だった父。わが家は自宅兼店舗の家で、父が突然なくなった事で、母は何もしないし、私が商工会議所だの、厨房器具を売ったりレンタルの看板の処理。何もかもが初めてで分からず、1人で走り回った。夫婦なら少しは分かるでしょ❓️と思ったが、毒母は何もかも父に任せっきりで、つまり依存していた😓
そして、数年そこで暮らしたが、台所ではなく厨房だから、住みにくくあまりよい土地でも無いことをしり、引っ越す事に。だが、家は持ち家で、土地は借地。何れは大家に更地で返さなければならないと思い、父が残してくれた生命保険で家を壊す事にした。なのに、そのひつ月前に毒母は屋根を台風から守る修理を依頼しており、100万円飛んでいった😫😫😫
この親本当に🐴🦌なんだと思った。その数ヶ月後、毒母が血便が出たと言い、近くの内科へ。そしたら大腸癌となっており、さらに詳しく調べて貰う為に紹介状を書いて頂き、そこでの検査で肝臓に複数の腫瘍が散らばっているので、余命半年と宣告された。😓あんな馬鹿な毒母でも母。何とか治せんものかと汎ゆる薬を使用し、サプリなども高額だが取り寄せた。大腸は手術し、それも家族が居ないので1人でずっと待って、先生に呼ばれホルモンの様なのをみせられ、なんで私がこんなまた1人で対応しなくちゃならないの😭って。
でも大腸は良くなり、肝臓も不思議と複数あったのに一つになった😲その後も新薬の飲む抗がん剤(ひと月6万円)を服用。🐴🦌な親から産まれた私も🐴🦌で高額衣装制度を知らずに、手術代、抗がん剤も全て実費で支払っていたのだ😖😖😖無知は本当に損てすね。
その後も私はパートにで仕事し、有給を使って毒母の通院同行し、娘は保育園から小学校となった頃、今度は肝臓癌がソフトボール台の大きさとなり、手術するしかないと言われ、肝臓を半分切った。今度はレバーを手術室後に見せつけられた😓その時も親族は私一人。どれだけ辛いことか。その後、娘を学童へ迎えに行きご飯の準備。そんな生活が5年続いた。つまり、肝臓癌の後も、腹壁へと転移し3回目の手術😮‍💨腹壁は筋膜をとってしまうので足の太ももから筋膜を移植手術しました。そのおかげで、内臓が出っ張らずポッコリお腹を布施げたけれど、足の方が痛い!と良く言っていた。癌はそこで終了‼️
翌年その翌年と両股関節の人工関節手術をし、結局5年続けて毒母の入退院につきあわされた。娘には気の毒でした。私はシンママなので日中は働かなければならないし、土日は病院。ほぼ家に居なくて朝早くから夜遅くまで学童。辛い思いをさせてしまいました😖休みでも何処へも連れて行けず本当に悔やまれます。私が離婚しなければ、こんな辛い思いさせなかったのにと….母子手当も働けば働いただけ減らされるようになり、私は勤めてた会社でフォークリフトの免許取得できないかを訪ね、取得してでも、時給750円。取らせてもらった分、我慢して働いて、違う会社へ転職する事に。しかし大殺界真っ最中だった私は職安を通しても受かったのに3日で「前の人が戻ってくるからと」言う理由で解雇されました。
その後も探し回って漸く自分がやりたいと思える会社を見つけました。が、新規の会社だったので、それまで3ヶ月ほど無職でした。
続きはまた…

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