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夏目漱石 時代を睨む美禰子の瞳

もはや何周目かわからない。大好きな漱石の恋愛小説、三部作の第一弾。最近読んだのはいつだろうか?この小説を読んで感想を吐かない訳にはいかないはずだと、自分が書いたブログを検索したところ、やっぱり美禰子に関する感想を書いていた。笑。2017年の夏休みの読書感想文として、美禰子についての記述がある。

美禰子に惹かれてしまうのは、広田先生の新居へ引越しの清掃に出向いた際、偶然に鉢合わせした美禰子を見た時の以下の表現だ。

「二、三日まえ三四郎は美学の教師からグルーズの絵を見せてもらった。その時美学の教師が、この人のかいた女の肖像はことごとくヴォラプチュアスな表情に富んでいると説明した。ヴォラプチュアス!  池の女のこの時の目つきを形容するにはこれよりほかに言葉がない。何か訴えている。艶なるあるものを訴えている。そうしてまさしく官能に訴えている。けれども官能の骨をとおして髄に徹する訴え方である。甘いものに堪えうる程度をこえて、激しい刺激と変ずる訴え方である。甘いといわんよりは苦痛である。卑しくこびるのとはむろん違う。見られるもののほうがぜひこびたくなるほどに残酷な目つきである。しかもこの女にグルーズの絵と似たところは一つもない。目はグルーズのより半分も小さい。」

こんな魅力的な瞳を持つ美禰子が、原口さんのアトリエでモデルとしてポーズを取る。原口さんが絵を描きながら、美禰子の目について三四郎に語り始める。

「原口さんがこう言った。「小川さん。里見さんの目を見てごらん」  三四郎は言われたとおりにした。美禰子は突然額から団扇を放して、静かな姿勢を崩した。横を向いてガラス越しに庭をながめている。「いけない。横を向いてしまっちゃ、いけない。今かきだしたばかりだのに」「なぜよけいな事をおっしゃる」と女は正面に帰った。」

「そこでこの里見さんの目もね。里見さんの心を写すつもりで描いているんじゃない。ただ目として描いている。この目が気に入ったから描いている。この目の恰好だの、二重瞼の影だの、眸の深さだの、なんでもぼくに見えるところだけを残りなく描いてゆく。すると偶然の結果として、一種の表情が出てくる。もし出てこなければ、ぼくの色の出しぐあいが悪かったか、恰好の取り方がまちがっていたか、どっちかになる。現にあの色あの形そのものが一種の表情なんだからしかたがない」」

あぁ人の顔の魅力って瞳に集約されますよね。目を見れば通じ合えると思うし、目は口ほどにものを言う、人生何度も目で殺されてるわ。笑。目力って大事。

実は漱石の「それから」を読むための導入部として、三四郎を読み始めたのですが、先週「82年生まれキムジヨン」を映画で見ました。この映画では女性に生まれ、子育てをしながら働くこと、社会に関わることの難しさを痛感させられました。男性に生まれ、好きなことやって、家庭は持つものの子育てにもあまり参加していない、家事にもそれ程協力的では無い、旧時代の自分が何を語るべきか、周囲に社会で活躍する女性が増え、家事に協力的な男性が増えている昨今、結婚する意味とは?家庭を持つ意味とは?子供を持つ意味とは?と少し考えをまとめるのに時間がかかると思ってます。それで三四郎を読み終えたところ、これまでの美禰子は生意気な女と言う印象が一変、彼女は自分の考えをしっかりと持ったスーパー女子で、好きな男性と結婚し、自分の人生を生きるために、SOSを出し続けたのだが、頼りない野々宮さんや三四郎には届くことなく、遂には時代の流れに押し流されてしまった可哀想な女性であるのだ。胸が苦しい。

明治時代に、こんな女性像にスポットを当てた恋愛小説を書く漱石さんの優秀さに感服です。

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