それから、門 by 夏目漱石
三千代に関する美しくも幸薄い感じの表現を読むと、藤谷美和子の顔を思い浮かべる以外にどうしようもない。漱石が藤谷美和子を思い浮かべながら小説を書き進めたのでは?と疑うくらいにハマり役。映画の中で三千代の古ぼけた写真が段々と浮かび上がって来るシーンがあるのだが、印象的な眼から浮かび上がるという一文を見事に映像化している。森田芳光監督、天才です。
「平岡の細君は、色の白い割に髪の黒い、細面に眉毛の判然映る女である。一寸見ると何所となく淋しい感じの起る所が、古版の浮世絵に似ている。帰京後は色光沢がことに可くないようだ。始めて旅宿で逢った時、代助は少し驚いた位である。汽車で長く揺られた疲れが、まだ回復しないのかと思って、聞いてみたら、そうじゃない、始終こうなんだと云われた時は、気の毒になった。」
「三千代は美くしい線を奇麗に重ねた鮮かな二重瞼を持っている。眼の恰好は細長い方であるが、瞳を据えて凝と物を見るときに、それが何かの具合で大変大きく見える。代助はこれを黒眼の働らきと判断していた。三千代が細君にならない前、代助はよく、三千代のこう云う眼遣を見た。そうして今でも善く覚えている。三千代の顔を頭の中に浮べようとすると、顔の輪廓が、まだ出来上らないうちに、この黒い、湿んだ様に暈された眼が、ぽっと出て来る。」
東京に出てきた三千代との再会。三千代は代助にもらった真珠の指輪をはめて登場する。これは明らかに代助を意識しているし、キチンと代助も気が付いたのはワクワクの予感でしか無い。
「 廊下伝いに座敷へ案内された三千代は今代助の前に腰を掛けた。そうして奇麗な手を膝の上に畳ねた。下にした手にも指輪を穿めている。上にした手にも指輪を穿めている。上のは細い金の枠に比較的大きな真珠を盛った当世風のもので、三年前結婚の御祝として代助から贈られたものである。」
三千代は平岡がいない所で代助にお金の工面を懇願する。徐々に今の自分の生活では如何ともし難いことを認識しつつ、どうにか三千代にお金を工面してあげた代助。そんな代助にお礼を言いに来た三千代の行動がエモい。代助のために銀杏返しに髪を結い、思い出の百合の花を購入して来たのだ。わざわざ周り道をして雨に降られそうになり息を切らして。これって三千代は完全にラブビーム発射しちゃってますよね。代助もすかしてる感じで振る舞っていますが、実はしっかりラブビームに撃ち抜かれていることが後の文章で発覚します。
映画で、この花が活けてある花器から水を口にするシーン初めて観た時、思わず心臓がドキドキした印象的なシーンです。これって映画の演出では無く、原文を再現していることに驚く。漱石さん天才です。
「三千代の顔はこの前逢った時よりは寧ろ蒼白かった。代助に眼と顎で招かれて書斎の入口へ近寄った時、代助は三千代の息を喘ましていることに気が付いた。「どうかしましたか」と聞いた。 三千代は何にも答えずに室の中に這入て来た。セルの単衣の下に襦袢を重ねて、手に大きな白い百合の花を三本ばかり提げていた。その百合をいきなり洋卓の上に投げる様に置いて、その横にある椅子へ腰を卸した。そうして、結ったばかりの銀杏返を、構わず、椅子の脊に押し付けて、「ああ苦しかった」と云いながら、代助の方を見て笑った。代助は手を叩いて水を取り寄せようとした。三千代は黙って洋卓の上を指した。其所には代助の食後の嗽をする硝子の洋盃があった。中に水が二口ばかり残っていた。「奇麗なんでしょう」と三千代が聞いた。「此奴は先刻僕が飲んだんだから」と云って、洋盃を取り上げたが、躊躇した。
代助は少しまごついて、又三千代の所へ帰って来て、「今すぐ持って来て上げる」と云いながら、折角空けた洋盃をそのまま洋卓の上に置いたなり、勝手の方へ出て行った。
代助は振り向きもせず、書斎へ戻った。敷居を跨いで、中へ這入るや否や三千代の顔を見ると、三千代は先刻代助の置いて行った洋盃を膝の上に両手で持っていた。その洋盃の中には、代助が庭へ空けたと同じ位に水が這入っていた。代助は湯呑を持ったまま、茫然として、三千代の前に立った。「どうしたんです」と聞いた。三千代は例の通り落ち付いた調子で、「難有う。もう沢山。今あれを飲んだの。あんまり奇麗だったから」と答えて、鈴蘭の漬けてある鉢を顧みた。代助はこの大鉢の中に水を八分目程張って置いた。妻楊枝位な細い茎の薄青い色が、水の中に揃っている間から、陶器の模様が仄かに浮いて見えた。「何故あんなものを飲んだんですか」と代助は呆れて聞いた。「だって毒じゃないでしょう」と三千代は手に持った洋盃を代助の前へ出して、透かして見せた。「毒でないったって、もし二日も三日も経った水だったらどうするんです」「いえ、先刻来た時、あの傍まで顔を持って行って嗅いでみたの。その時、たった今その鉢へ水を入れて、桶から移したばかりだって、あの方が云ったんですもの。大丈夫だわ。好い香ね」」
のらりくらり、煮え切らない代助がついに自分のライフスタイルをかなぐり捨て、度重なる不幸から救うために三千代への愛を確信するシーン。漱石は簡単な言葉で愛を表現するのは日本人的で無いと言う。心と心がつながって、日常会話の延長線上に愛を取り交わす、侘び寂びの世界観が日本的であるとしている。スマホ、LINEで四六時中つながることが出来る今どきの若者にこの素晴らしい控えめな文化伝わるのかしら?
「しばらく黙然として三千代の顔を見ているうちに、女の頬から血の色が次第に退ぞいて行って、普通よりは眼に付く程蒼白くなった。その時代助は三千代と差向で、より長く坐っている事の危険に、始めて気が付いた。自然の情合から流れる相互の言葉が、無意識のうちに彼等を駆って、準縄の埒を踏み超えさせるのは、今二三分の裡にあった。代助は固よりそれより先へ進んでも、猶素知らぬ顔で引返し得る、会話の方を心得ていた。彼は西洋の小説を読むたびに、そのうちに出て来る男女の情話が、あまりに露骨で、あまりに放肆で、かつあまりに直線的に濃厚なのを平生から怪んでいた。原語で読めばとにかく、日本には訳し得ぬ趣味のものと考えていた。従って彼は自分と三千代との関係を発展させる為に、舶来の台詞を用いる意志は毫もなかった。少なくとも二人の間では、尋常の言葉で充分用が足りたのである。が、其所に、甲の位地から、知らぬ間に乙の位置に滑り込む危険が潜んでいた。代助は辛うじて、今一歩と云う際どい所で、踏み留まった。帰る時、三千代は玄関まで送って来て、「淋しくって不可ないから、又来て頂戴」と云った。」
覚悟を決めた代助は、これまで金銭的に支援を続けてくれた家族との温い関係を絶ち、三千代とたった二人きりで世知辛い世間との戦いが始まる。ここで、それからは終わってしまう。その後二人はどうなったのか?恋愛に走り始めた二人の末路は?という事で、いよいよ門につながる訳です。主人公二人の名前が変わっているのが少し残念。頭の中で代助→宗介、三千代→御米と変換して行きます。本当は続編の設定で読みたかったのが正直な所ですが、正に30代で激しい恋に突き動かされて、夫婦になった二人が、それからどの様な生活を送っているのか、子供はいないので互いを信頼し合って生活するも、世間から切り離された一抹の寂しさが漂う感じが絶妙なリアルさで表現されているのが以下の文書から読み取れる。激しい情熱に突き動かされて生きると、早めに脱力し、老け込むのが早くなるんだろうね。燃え尽き症候群か?リアル過ぎて自然と複雑な感情の笑いが込み上げてくる。これ(不倫)を現実世界でやったらアカン。
「夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さに堪えかねて、抱き合って暖を取るような具合に、御互同志を頼りとして暮らしていた。苦しい時には、御米がいつでも、宗助に、「でも仕方がないわ」と云った。宗助は御米に、「まあ我慢するさ」と云った。 二人の間には諦めとか、忍耐とか云うものが断えず動いていたが、未来とか希望と云うものの影はほとんど射さないように見えた。彼らは余り多く過去を語らなかった。時としては申し合わせたように、それを回避する風さえあった。御米が時として、「そのうちにはまたきっと好い事があってよ。そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから」と夫を慰さめるように云う事があった。すると、宗助にはそれが、真心ある妻の口を藉りて、自分を翻弄する運命の毒舌のごとくに感ぜられた。宗助はそう云う場合には何にも答えずにただ苦笑するだけであった。御米がそれでも気がつかずに、なにか云い続けると、「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」と思い切って投げ出してしまう。細君はようやく気がついて口を噤んでしまう。そうして二人が黙って向き合っていると、いつの間にか、自分達は自分達の拵えた、過去という暗い大きな窖の中に落ちている。 彼らは自業自得で、彼らの未来を塗抹した。」
こんな日陰生活を余儀無くされた二人の馴れ初めは、どんな感じだったのか?友人の妹と紹介されたお米と土塀に並ぶ影が印象的だったことを振り返る晩に、宗助は以下のようにお米を考えている。あからさまに他人の女房では無さそうな一文であり、親戚縁者から関係を断たれる程お米と一緒になることに問題があったのか少々疑問である。
「けれども彼の頭にはその日の印象が長く残っていた。家へ帰って、湯に入って、灯火の前に坐った後にも、折々色の着いた平たい画として、安井と御米の姿が眼先にちらついた。それのみか床に入ってからは、妹だと云って紹介された御米が、果して本当の妹であろうかと考え始めた。安井に問いつめない限り、この疑の解決は容易でなかったけれども、臆断はすぐついた。宗助はこの臆断を許すべき余地が、安井と御米の間に充分存在し得るだろうぐらいに考えて、寝ながらおかしく思った。」
その後二人の仲は急接近、安井の存在に怯えて暮らすに至る訳である。正直もう少し幸せな生活を送っている二人でいて欲しかったかな。いや二人にとって、穏やかで質素な二人の世界は十分に幸せな生活なのだろうか?うむ、当事者にはなりたく無い物語なので、第3の友人としてこの夫婦に問いたい。「それから、以後どうだい?」
—『夏目漱石 電子全集(全149作品) 日本文学名作全集電子文庫』夏目漱石, 日本文学名作全集電子文庫著
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と言う訳で、全文読み返さなくても、直ぐに大好きなシーンに飛び込めるよう電子書籍の引用機能を使って、スクラップしておきます。はぁ〜映画のそれから観たいです。
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