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恨む人、旅立つ人、見送る人。

仕事とか恋愛とかの関係で突然うまくいかなくなって別れた人の動向をいつまでも追っている人をよく見かける。あいつは俺を裏切った、とねちっこい恨みを抱いていて、その人が失敗したりすると、ようやく恨みが晴れたというのだけど、彼が抱いている不安や劣等感のようなものは晴れていないみたいだ。
念を向けられている人は、どういう気持ちなのだろう。

百戦錬磨のプレイボーイは、相手にひたすら謝って相手の自尊心を傷つけないように対応してから、すっぱり切るらしい。大人と言えば大人だが、そういう人はある種の狡さを持ち合わせている。

SNSのスレッドでこんな書き込みを見た。
—— 女が自立するのは素晴らしいことだけど、自立する前に付き合っていた男とはうまくいかなくなるよ。残酷な現実が待っている。

残酷というのは、どういう世界なのかしら。自立ということはある意味、何かを手放すことでもある。これまであった、居心地の良かったもの、暖かい布団から出るようなものだ。
でもそれらを手放すということは、そこにいることの酸いも甘いも体験し尽くしたからだろう。

女、いや、人というものは、心が成長していくと、誰でもしがらみから解き放たれて自由になっていくのではないかしら、と、先人たちを見ていて思う。
しがらみとは、愛という名前がつけられた「情」のつながりのことだろう。ある年齢を過ぎた頃から、それが全て幻に見える人と、かけがいのないギフトと捉える人と二極化する。

恨みというのは、それまでの甘えが裏返った状態だ。すやすや眠っているときの枕をいきなり取られたみたいな。ごん、と頭をぶつけて、痛いでしょ(笑)
痛えな、コラァー!と怒る人の気持ちもわからないでもない。それが人間だ。でも怒りの元が、甘えだということはわかっていた方がいい。枕だった人は、自由になるために一つ成長したのだ。


1970〜80年代に流行った「銀河鉄道999」というアニメ映画がある。母親を殺された少年、星野哲郎が、機械の体を手に入れるために喪服の女性メーテルと銀河鉄道999に乗って旅をするという話だ。

結局鉄郎は、限りある命を選んで機械の体を諦めるのだけど、ラストで、旅をして大人になった鉄郎と別れを選ぶメーテルって、強くて素敵だ。自分の寂しさを抑えて、旅立っていく少年にエールを送る、深い母性愛は、当時日本中を虜にした。

あの人はもう 思い出だけど 君を遠くで 見つめている

というゴダイゴの歌詞はまさにメーテルという人となりを謳っているのだろう。

話は戻すけど、他人を枕にしてすやすや眠るのは、一つの幸せの形であって、永続的なものではない。バランスが取れてうまくいっている状態に感謝して、幸せを継続する努力ができることは、その人の人間性のなせる技なんだろう。
相手の人生をどこまで応援できるかで、自分も強くなれる気がする。



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