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イサム・ノグチのアイデンティティと原動力

明日から4度目の緊急事態宣言が始まりますが、上野の東京都美術館で開催中の「イサム・ノグチ 発見の道展」は引き続き実施されるようです。(2021/8/29(日)まで。

今日は先週noteに記録したこちらの記事の続きです。

---先週記事より-------
人生において常に探究心を忘れず、いろんなジャンル・表現に挑戦したイサム・ノグチ。この展覧会では第一章から第三章までで、それぞれの表現の奥行きを感じることができます。展覧会を通して彼の軌跡を見ることができましたが、改めて振り返ってみて「彼をこれほどまでに掻き立てたものは何だったのか」とても気になります。気になったのでパンフレットに書いてあった年譜を見てみると、気づきがありました・・・長くなったので続きは次週にでも。

イサム・ノグチのアイデンティティ


発見の道公式HPには、イサム・ノグチ(1904-1988)について

「日本人の父とアメリカ人の母との間に生まれ、アイデンティの葛藤に苦しみながら、独自の彫刻哲学を打ち立てた」

という記述がありました。

実際その時代の年表見ると

1904年(0歳) ロサンゼルスに生まれる。
1907年(3歳) 母と日本へ。
1918年(14歳) 単身で横浜からアメリカへ出航。

とあります。

20世紀初頭、日露戦争や第一次世界大戦など世界が混沌としている中、日本とアメリカを行ったりきたりし、ハーフということで差別を受けたという幼少・青年期。自分とは何か考えさせられる機会が多くあったことが推察されます。

自分のアイデンティティとは何か思考した結果が、芸術に対する哲学や表現の奥行きにつながっていったのかなと思います。


「アイデンティティの葛藤」に苦しみながら・・と一言で言ってしまうと、「日本人とアメリカ人との間での葛藤」と安易に思ってしまいそうですが、私がこの展覧会でイサム・ノグチの作品を見て、またさらにノグチ・イサムの年譜を見て思ったことは「日本人、アメリカ人という人種の枠に囚われず、世界の視点から物事を捉えた人」なのではないかということ。

その着想のきっかけとなった年表はこちら(序盤だけ紹介)

1926年(22歳) 初めての舞台のお仕事。
1927年(23歳) パリへ。彫刻家であるブランクーシーのアトリエで石彫を学ぶ。藤田嗣治などパリに集った画家たちと交流。
1929年(25歳) ニューヨークへ。音楽家や著名人の肖像彫刻に励む。
1930年(26歳) ヨーロッパ経由で北京へ。斉白石(画家 ・書家・篆刻家)に師事する。
1931年(27歳) 来日。高村光雲、光太郎父子や日本の芸術家と出会う。
1935年(31歳) メキシコでディエゴ・リベラ制作の壁画に参加。

それ以降もインド、インドネシア、エジプト、さらには79歳の時にマチュ・ピチュに行ったりととにかくアクティブ。

ニューヨークと香川の牟礼に制作拠点があったようですが、ひとところに留まらず、世界を巡った経歴がすごい。このパンフレットを手にノグチ・イサムの足跡を探索し想像するだけで半日は楽しめます。

イサム・ノグチの原動力 行動・交流

で、冒頭に書いた「彼をこれほどまでに掻き立てたものは何だったのか」という問いに対し私が感じたことは「人や世界との出会いがものづくりの原動力としてあったのではないか。」ということです。

世界を旅し、人と出会い、交わる。その結果インスピレーションが生まれ作品が生まれる。それらを生むためにまた旅をする。

そんなサイクルでイサム・ノグチの人生は彩られていたのかもしれません。

終わりに 「イサム・ノグチ56歳 大いなる始まり」から感じること

年表の中にこんな記述がありました。

1960年(56歳) イスラエル博物館のビリー・ローズ彫刻庭園設計のほか、大規模案件に次々と着手。のちにノグチはこの年を「大いなる始まり」の年と述べている

もちろんこれ以前にも作品は評価されていたのですが、56歳にして「大いなる始まり」と表現するところがすごい。

ちなみに1960年当時の平均寿命は男性で65歳。定年は55歳だった時代。

「行動と交流が原動力を生む」

人生100年時代の今、参考にしたい!


それではまた明日。



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