生き残るということ2……東浩紀の「悪の愚かさ」について考える

『ゲンロン10』(2019)、『ゲンロン11』(2020)で、東浩紀は「悪の愚かさ」について論じている。
これは、かつてハンナ・アーレントがアイヒマン裁判を傍聴して出した「悪の凡庸さ」という概念に対して提示されたものだ。アーレントはアイヒマンが巨悪を行うにはあまりにも凡庸な人物であったということを示し、それを「凡庸さ」と呼んだ。
それに対して、東は自身が旧満州ハルビン郊外につくられた「侵華 日軍第七三一部隊罪証陳列館」を訪れたときの印象から、被害者側と加害者側の意識の違いに注目する。東は罪証陳列館の展示が、少し日本軍の成果を過大に評価しているように見えたことをのべ、その理由として被害者は、加害に意味がなかったということに耐えられないのではないか、と推測している。そして「加害の愚かさを認めることは、ときに加害の反復になる」とする※1。つまり、悪にも物語が必要なのだ。加害者が愚かしくも殺してしまった、というような、まるで偶然に起きた事故のような捉え方に生き残った被害者やその遺族たちは耐えられない。
 それはアーレントの「悪の凡庸さ」が提起した問題とも通じるだろう。アルゼンチンまで追跡してようやく捕まえたアイヒマンが凡庸であったなどと、家族を殺されて生き残ったユダヤ人たちに耐えられるだろうか? できれば目を背けたくなるような骨の髄からの巨悪であって欲しかったはずだ。

 ところで、東は自身の「悪の愚かさ」とアーレントの「悪の凡庸さ」との違いを次のように述べる。

凡庸な悪は受動態的に加害に加担する。殺したくはないが、がまんして殺す。超越者のために殺す。精神分析のことばでいいかえれば、「超自我」のために、あるいは「父」のために、自我を抑圧して殺す。愚かな悪は中動態的に加害に加担する。殺したいわけでもないが、かといって殺したくないわけでもなく、なんとなく殺す。
※2

「なんとなく殺す」という言葉はいかにも恐ろしい。七三一部隊についての分析を踏まえると、この言葉は加害者側がどうしようもなく罪の意識が低いことを表したものだ。それは犠牲者が「丸太」と呼ばれ、番号をつけられて名前を剥奪されたことにもよるだろう。七三一部隊の一人が戦後、このことについて証言するシーンが紹介されているが、おそらく生き残りのほとんど誰もが、罪を犯したと思っていなかった。明確に罪を意識していたアイヒマンとは違う。

東があえてそのような悪の問題を提起するのには、二つの理由があると思われる。
 
 一つは、すでに起こったそのような悪をどのように記憶すればよいのか、である。罪を犯した憶えのない加害者たちは、それを悪とすることを否定する。それは近年の歴史修正主義的運動が、南京大虐殺や、七三一部隊、はてはアウシュビッツまでもなかったことにしようとすることに繋がっている。加害者やその子孫、その後継者を自認するものにとって、それらはなかったことにしたい、いや、むしろ「あったはずがない」のだ。
 そのように忘れようとする圧力に対し、どうすれば僕らは悲劇を記憶し続けられるだろうか?どうすれば悪を悪として記憶できるだろうか?

 ここで東の課題を、僕の主題「生き残ること」の方に引き付けて考えたい。いかに悲劇を、悪を記憶するか、という問題は、「いかに記憶を生き残らせるか」ということと言い換えることもできる。記憶がもし本当に絶えてしまったら、つまり生き残らなかったら、それはなかったことにされてしまう。なかったことにされたなら、それは再び同じようなかたちで起こるかもしれない。別の場所で同じようなかたちで起こるかもしれない(あたかも進化の過程で別の地方で収斂進化が起こるように)。それには他でもないこの文章の筆者である僕自身が耐えられない、許したくない。であるならば、これを生き残らせなければならない。

 なぜここで、ことさらに自分自身を問題とするかというと、それが個々の人間それぞれ自身の問題であるから、と思うからだ。記憶は語り継がれる形で伝わる。だが伝わるときには個々の人間の口述、記憶、そして書いたもの、さらには写真、映像などつまりメディアを通して伝わる。そのとき、個々の人間はその記憶の運び手、つまりメディアに過ぎないわけだが、運び手たちはその中でそれ以外の自分の人生をも生きている。いや、人生というものはそういうつながりのあやが複雑に絡み合ったものが、肉体としての身体と分かち難く結びついたものだ。そしてそれは個々の人間によってまったく違うが、ある種の繋がりを経た歴史経験はまるで共有されたように、集団内の個々人に内在していく。それは共有されていながらも少しずつ異なっている。前述のように個人の物語とそういった共有された物語が絡み合っていて、しかも生身の肉体と結びついているからだ。
 そして、たとえば南京大虐殺や七三一部隊の記憶を、違うかたちで、それも、それらがなかったかのように記憶する人たちも、彼らにとってはそれが個人の物語と複雑に結びついているのだろう。だから、そこからそれだけを変える、ということは考えるだけでも難しい。それこそ人生そのものを変えてしまうような、そんな痛みを伴うことかもしれない。
 人間は記憶力に限界を持っている。現代の世界の全ての悲劇を記憶することはできない。ましてや歴史上のことまでも知ることはできない。歴史化されてないことも含めればそれはあまりに膨大すぎる。ふたたび僕自身を問題とするなら、僕はあまりにも世界を知らない。行ったことのないところばかりだ。僕がいまだ知らない悲劇など、いくらでもある……。
 しかし、それでも自分は生き残らなくてはならない。あるいは自分の思想、自分の受け継いだ歴史、自分の負っている何かを、生き残らせなくてはならない。それは単にお金を稼いで生活するだとか、自分の家族の伝統を受け継ぐだとかということを意味しない。もっと社会的で、もっと身近で、言うなれば隣人的なことである。自分が受け継いだものとともに自分の人生を生き、そして、それが複雑に絡み合ったものを少しずつ、あるいは多く家族や隣人に受け継がせていく。そういうかたちでの生き残りである。

 課題のもう一つは、このような悪は我々が生きる現在と、それから未来においてより頻繁に現れてきてしまうだろう、ということである。近代以降、社会システムはより大きく複雑になり、科学は核兵器を生み出すまでに進歩した。その頂点がナチスドイツによるユダヤ人の大量虐殺と広島・長崎への原子爆弾投下であろう。さらには、より小さなものでもその都度人々を震撼させてきた災厄の存在は枚挙にいとまがないであろう。2001年の9.11、イラク戦争、2011年の3.11、シリア内戦……冗長にしかならないのでこれ以上書かない。だが、我々の目にいまだ映らない災厄もまた存在する、しているはずなのだ。そして未来においてはさらに進化した科学が想像もできないような惨劇を引き起こすかもしれない。
 そのとき、そういった悪に対し、我々はどのように倫理的に振る舞えばよいだろうか、という問題が出てくる。システムの一部をなす悪の成員は、それこそアイヒマンのように「倫理的に」義務を果たしただけかもしれない(彼の上司ラインハルト・ハイドリヒはより主体的に計画を先導しているようだが、終戦前に暗殺され、法廷で裁かれることはなかった)。広島・長崎に落とされた2種類の異なる原子爆弾は、物理学者たちの努力と犠牲(放射線被爆に晒されて命を縮めた者が多いと言われる)の賜物でもある。
 なにより、東が提起するような「愚かな悪」は、悪を為したされぞれの主体が悪を認識できていない。そのような悪を我々はどのように裁けばよいのか、そのような悪の犠牲になった被害者はどのように救えばいいのか? またこれからの未来において、我々自身がそのような悪に陥らないために、どうすればよいのか? 

 ここで僕は、悪の記憶を「肯定的な失敗」として残すことを提案したい。「愚かな悪」は、その担い手たちは自らが悪であることを認めようとしないだろう。彼らは基本的にそれを認めず、否認し、何かで上書きしてしまおうとする。歴史修正主義がその典型だ。ではどうするか? そこで、もしそれが肯定的なものと見なされたらどうだろうか、と考える。それは結果として悪であった。しかし、そこから学ぶことは多い。多くなければならない。さらには我々自身が今現在そのような別の悪の担い手である可能性は否定できない。そうであるならばむしろ、悪の担い手を肯定的に見なすことで、悪を「人類の失敗」とし、そこから学ぶことが必要なのではないか。
 被害者たちにはとうてい受け入れがたいと思う。実際に、生き残ったユダヤ人たちは「凡庸なアイヒマン」を処刑した。それは感情としてやむを得ないこととは思う。しかしながら、アイヒマンを「失敗した人間」と見なし、彼の失敗を共有し、彼の失敗を繰り返さないようにすることこそが、未来へ向けての財産になるのではないか。なぜならば我々みなが失敗をする人間だから、である。
 また、悪の担い手たちは肯定的に捉えられることによって、少しは自らの行為を語ることができるようになるだろう。なぜなら、彼ら自身が幾分の責任を免除されるからである。これは犠牲者にはなお受け入れがたいかもしれない。たくさんの人を殺した人間が、「それは自らの愚かさの故だ」などと言ったとしたら……だが、現代の人間はそのような事例にすでに何度も出会っている。思えば多くの飛行機事故などはそのようなものであるし、自爆テロなどもそうかもしれない。

 ここで前述した、記憶を生き残らせるということに戻すと、僕は悪をも記憶の生き残りに参加させることを主張する。それはアーレント「悪の凡庸さ」も、東の「悪の愚かさ」も両方を、である。なぜなら、放っておけばそれらは悪として残ることを否定するからである。悪が、そこから学ぶべき失敗とみなされるならば、悪の担い手となった、凡庸な、あるいは愚かな主体も、それを消し去ることなくむしろ重い口を開くことができるかもしれない。それは記憶を生き残らせることにとって大きな助けとなるだろう。


※1…東浩紀「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」『ゲンロン10』ゲンロン、2019、kindle版
※2…東浩紀「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」『ゲンロン11』ゲンロン、2020、kindle版

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?