「麒麟がくる」に学ぶ「民主主義のクソ面倒臭さ」について

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」面白いですね。

 青春群像でもあり、恋愛模様でもあり、親子や立場、時代や身分との相克を描いた群像劇でもあり……。

 本木雅弘さん演じる斎藤道三も、いよいよ出番の終わりが迫っているわけですが、あれほどまでに豪腕で有能な道三がなぜ負けてしまうのか、個人的に、ここが重要なポイントだったりします。

 さて、室町幕府の役職について大雑把に説明しますと、いちばん上に将軍がいて、その次に管領、そのさらに下に守護、守護代、奉行という序列になっています。

 斎藤道三は親の代に成り上がった守護代(ただし、代々続く守護代の家柄ではなく、父親の代に成り上がったばかり)で、追放された土岐さまは守護、それも名門の中の名門の守護です。織田信長に至っては守護代ですらない奉行の家柄であり、多少銭と勢いがあったところで家格的には大差ない同族も多くおり、それゆえに一門での争いが絶えないわけです。

 また、役職があるからと言ってトップダウンで命令できるかというとそうではありません。国衆という地元密着のボスたちがあちこちにいて、地域に根ざした権力を握っているからです。「麒麟がくる」でいうと稲葉氏や明智氏、光秀の正室・煕子の実家である妻木氏などがそれに当たります。他の大河ドラマで主役になった人物で言うと、毛利元就や黒田官兵衛、真田一族なども国衆出身です。

 室町幕府末期になってくると、足利将軍ですら身の安全を脅かされて都落ちする羽目になるなど、全国各地で権威、役職が通用しない状況になっていきます。いわゆる「下剋上」の世の到来です。

 そうなると、管領やら守護やらが全国各地で下から突き上げを食らうようになり、トップの入れ替わりが起こるわけですが、そういう時代になっても、いや、なったからこそ、地域に根を下ろして土地と食料と兵力を握っている国衆たちのことはおいそれと無視できないわけです。担ぎ手にそっぽを向かれた神輿は何もできませんから。

 特に、斎藤道三のような「実力と、一代前に奪い取ったばかりの役職」以外に何も持ってない人間の場合、ちょっとでも隙を見せると国衆たちは「担ぎやすい神輿」の方に行ってしまうわけです。ドラマで言うと、息子の斎藤義龍がそれに当たりますね(歴史通に言われると、彼は彼で父親とは違うタイプの有能な為政者だったそうですが……)。

 つまり、現代サラリーマン社会とは違って、どれだけ有能であっても「ワンマン社長のトップダウン」というのはできなかったわけです。やってしまったら、実際に土地と食料と人を握っている人たちに嫌われてしまうのですから。

 こうした「役職があろうが戦に強かろうが現場を握っているやつらは無視できない」という時代が終わるのは、徳川の世、それも、家康の世ではなく、二代目将軍秀忠、三代目将軍家光の時代まで待たなくてはなりません。斎藤道三が没してから(1556年)おおよそ60年もの歳月(1616年~)を要したわけです。

 さて、この「役職があろうが戦に強かろうが現場を握っているやつらは無視できない」時代においてトップがどうやって国をまとめていったかというと、合議です。みんなで会議して決めるわけですね。

 どんな天才でもだいたいこれです。上杉謙信なんかは国衆が言うこと聞かないのに嫌気がさしちゃって出奔したり、武田家も「名門守護の家柄&すごい実力」という背景があったにも関わらず、いざ敗色濃厚となると有力一門国衆が織田方に寝返っちゃったりするわけでもう大変です。

 地元のボスたちがいて、彼らから承認された国のボスがいて、物事は話し合いで決める。国のボスが地元のボスの意に沿わない振る舞いをした場合、地元のボスたちは隙を見て他のやつをボスに立てる。他国のボスに通じたり、国衆から新たなボスを立てたり……。

 なんというか、現代と似たところ、ありませんか?

 会社とか役所だと命令系統がしっかりしていないと存続自体がヤバいですが、趣味の集まりとか地域の集まりとか有志による企画・イベントとかだと、こういう感じなりがちというか……。

 しかし、言ってしまえば議会制民主主義そのものが、これと似たようなものなのかもしれません。

 地元密着で選ばれた地方議員と、各県・各党単位で選ばれた国会議員がいる。彼らは政党や派閥、グループに所属し、与党の議員たちのボスが承認した総理大臣と内閣によって国が運営される……。

 なんだか、面倒くさいですね。戦国時代からあまり成長していない気もしますね。

 でも、民主主義というのは基本的に面倒くさいものなのです。

 アメリカだって、各党の代表候補選び、大統領予備選挙、本選挙と、膨大な時間と労力を費やしています。よくやるなあって感じです。

 にもかかわらず、そのやり方を続けているのは「民主主義とは、そこまでやらなければあっという間に崩壊してしまうものなのだ」とわかっているからなのでしょう。

 例えば、大衆受けしそうなことをバンバン言って、手続きも段取りも無視してドンドン行動してガンガン人気を得る人が出たとしましょう。

「なんかさ、民主主義って面倒くさい割に時間もかかるし労力もかかるしでコスパ悪いよな?」
「もう、有能なやつに一から十まで任せて、サクサク決めてサクサクやってサクサク成果だしてもらっちゃおうか?」
「いいね! そうしよう!」

 どっかで聞いた話だなって? まあ、そういうことです。

 クソ面倒くさい時代に、バンバンドンドンガンガンやってサクサク成果を出そうとしてしまったがために凋落していく斎藤道三。

 「もしも彼のような男が現代日本にいたらどうなっていただろう?」と考えてみると「やっぱりコケるよ。少なくとも、政治家としては」と考えるのが妥当であり、そうあるべきでしょう。民間ならいいかもしれませんが……(斎藤道三も、京の油問屋の気鋭の二代目として生きていたら、また別の人生があったかもしれませんね)。

 決め事、段取り、根回し、会議……。

 そう、民主主義とはクソ面倒くさいものなのです。

 しかしそれは「ずば抜けたリーダーシップをもった偉大な英雄」によって何度も痛い目を見てきた人類による「妥協に妥協を重ねた上での現時点における最適解」なのでしょう。

 さて「麒麟がくる」はいよいよ織田信長の時代へと進んでいきます。

 「ずば抜けたリーダーシップをもった偉大な英雄」として描かれることの多かった信長は、本作ではどう描かれるのでしょうか。

 時代考証の評判がいい本作なので、最新研究に基づいた「意外と保守的で、気配りや気遣いもかなりできる人」という描き方になるのでしょうか? はてさて……?

 

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