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「わからない」に素直になると楽になる

 わからないことを素直に認めて、立ち止まることができるひとはどれほどいるだろう。

 多くのひとが、世の中のたくさんのことについて「知っている」と思い込みながら生活をしていて、あえて問いなおすことなくスルーしてしまっている。というのも、「時間がないから」といって考えることをやめてしまったり、「答えがないことを話し合うのにどのような意味があるのか」といった疑問を抱いているからだ。

 ひとたび立ち止まってあたりを見まわしてみると、世の中は謎だらけ、わからないことだらけであることに気づく。そして、それらに答えを与えることが、容易ではないことを知っている。

 しかし、どういうわけか、わからないと発言することを否定的に捉え、恐れている学生は少なくないように感じる。質問を投げかけられることと、じぶんが非難されていることを混同させてしまっているのだろうか。また、肩肘を張って、問いに対して解答を与えようとしているのだろうか。

 たしかな答えを得たいと焦るひとは、社会的に固定した評価を得たいという情念に駆られている。人生を解答的な過ごし方で充たすことは、与えられた目的に向かって生きていく仕方にほかならない。

 問いに対してぼくたちが示さなければいけないのは、わからないことを素直に認めつつ、さらに別の問いを与えるというわからなさにしつこい態度である。「多様性とはなにか」という問いとともに生き続けることは、伝統的に割り当てられた役割を疑いながら、完全に態度決定ができないままに、他者とじぶん自身とに相対するということだ。

 「わからない」に正直であり、問いとともに生きる態度は、ひとを惹きつける。そして、周囲にいる他者もその問いや、わからなさに巻き込んでいく。