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閃きとの不思議な出逢い

天才的な閃き!

なんてものを信じているうちは、閃きなんてものは下りてこない。自分は、マーケティングの企画にせよ、データ分析の方向性にせよ、思いつくのはパソコンに向かってではない。自分は散歩している時が多いように感じる。あちこち徘徊しているうちに、なんとなく下りてくる。
あとは電車の中。最近は電車に乗らないから困る。あとは風呂か。真剣に考えている時は、「その時」に備えてジップロックに入れたiPhoneを持ち込むこともある。

理論物理学者のリサ・ランドール先生は、宇宙飛行士、若田光一さんとの対談集「異次元は存在する」で、5次元の概念を閃いた時のことをこんな風に語っている。

理論物理学に取り組んでいるときは、どこで何をしていても、それについて考えている可能性があります。もちろん、椅子に座って方程式を解かなければならないときもあるし、運転のように集中力を必要とする作業の最中にはできません。でも、特に概念的なことを思考するときというのは、どこでどのようにというのはなくて、むしろ考えていないつもりでも頭の片隅にある、という感じです。
(リサ・ランドール、若田光一「異次元は存在する」)

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リサ先生は、ボストンにあるチャールズ川にかかったハーバード橋を渡り、何気なく川の流れをぼーっと見ていた時に、高い次元の世界があることを感じたという。

昭和のベストセラー作家、松本清張。彼の推理小説の発想法はこうだ。

よく人から、「あなたは推理小説を書くとき、どういうふうにして作りますか」ときかれますが、発想は机の前にすわって呻吟しても浮かぶものではない。むしろ、トリックとかアイデアというものは、風呂の中とか、夜、寝床にはいってボンヤリしているようなときに、ポツンと浮かんでくるもので、こればかりはいくら考えてもそう理詰めに答えの出てくるものではないのです。たとえば、バスの中で、電車に乗っていて、ちょっとした考えが頭の中に浮かぶことがあります。これはヒント程度です。乗り物はこみあうほどよろしい。真中に挟まれて無心になれます。この無心の状態が最良の条件です。風呂の中とか、寝床とか、厠とかは、同じ状態です。
(松本清張「私のものの見方考え方」)

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「乗り物はこみあうほどよろしい」のであれば、日本の通勤地獄に耐えてきたサラリーマンは、皆流行作家になれる。でもそんなことは起きていない。満員電車に揉まれるだけでなく、リサ先生のように頭のどこかで考えていないようでも考えている状態、それが必要なのだ。

セレンディピティなんてオシャレな言葉もあるが、こういう閃きとの不思議な出逢いはなんだろうなと思っていたが、先日Kindle Unlimitedで何気に借りた本を読んでいたら、こんな言葉に出逢った。

人間の縁の広がりによる働きの不可思議なことは到底浅はかな智慧では計り知るべからざるものがございます。これを専門的な言葉で縁尋の機妙と申します。例えば古本屋へ立ち寄ってもそうであります。平生勉強しておらなければ何も目につきませんが、何か真剣になって勉強しておる時には、何千冊竝んでおっても、それに関連のある書物は必ずぱっと目にうつる。これが所謂縁尋というものです。
(安岡正篤「人生と陽明学」)

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縁尋の機妙」。「縁を尋ねることによる機会の妙」といったところか。歴代総理大臣のご意見番であり、玉音放送の原稿を完成させたともいわれる安岡正篤が好んだ言葉のようだが、元は仏教用語らしい。

縁を尋ねるという行為を行い続けることが、不思議にも思える機会を生み出す。「犬も歩けば棒に当たる」という言葉があるけれど、そうではない。考えて歩く犬だからこそ、いつか棒に当たるのだ。

自分が「縁尋の機妙」という言葉に出くわしたのも、「こういう閃きってどういうことなんだろうな」と考えていたからなのか。実は同じようなことが、ついこの先日、別なことであったが、それはまた次の機会に記したい。
いずれにせよ、勤務時間が終わったから考えることはもうオワリなんてことをやっているうちは、棒に当たることなど決してないのだ。

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