【ネタバレ】The Last of Us Part2〜ビデオゲームの枠を超えて〜
先日、The Last of Us Part2(ラストオブアスパート2)をクリアしました。
前作をPS3、PS4でいずれもプレイし、何周もした一番好きと言っていい作品でした。
そして待ちに待った次回作。
完璧な終わり方をした前作から、一体どのような物語が紡がれるのか。
期待半分、正直不安の方が大きかった。
そしていざ、その物語を見終えた時、私はどう思ったのか。
ラストオブアス2は、前作に引けを取らない傑作でした。
もちろん賛否両論あることは容易に想像できます。
誰もが期待するような、甘美なハッピーエンドで終わったわけではありません。
というより、そんな結末を迎えないことは、前作をプレイした人なら容易に想像がつくでしょう。
そこに待ち受けていたのは、耐えがたく、苦しい結末でした。
はっきり言って、ラストオブアスはこのパート2で、ビデオゲームの枠を飛び越えてしまったと思っています。
つまり作品作りの根幹、根っこの根っこにまで深く掘り下げてしまった。
特にバトル物のような、敵と戦う物語において、これまでタブー視されていたところに触れてしまったのです。
だから多くの人が作品の結末に不満を抱いていると私は見ています。
では一体、どのようなタブーに触れてしまったのか。
※本内容は思いっきりネタバレを含みます。
この作品を今から初めてプレイするという方は、絶対に読まないでください。
自分の目で物語を体験して欲しいと思います。
作品作りのタブーに踏み込んだラストオブアスパート2
ラストオブアスパート2では、映画や、ゲームを含めたあらゆる作品でタブー視されている領域に踏み込んでいます。
特に敵がいて、対決するような作品においては描くのを避けていることです。
それは一体何なのか。
それは、倒した敵にも愛する家族がいる、ということです。
主人公エリーとアメリカ大陸を横断し、家族か、それ以上の絆で結ばれたジョエル。
そのジョエルが、ある集団に捕まり、殺されてしまいます。
ジョエルにとどめをさしたのは、アビーという女でした。
アビーは一体何者なのか。
アビーは、ジョエルがエリーを救うために殺めた医者の娘でした。
前作で名前もなく、プレイヤーが殺めた男にスポットを当てたのです。
(この時は流石に、ノーティドッグめ、やりやがったなと思いました笑)
アビーの正体が何者なのか知らされず、プレイヤーはエリーの復讐劇をプレイすることになります。
そしてその後は、たっぷりとアビー側の視点でプレイすることになります!笑
父の動物に対する愛であったり、娘との触れ合いから感じ取れる優しさをまざまざと見せつけられることになります。
正直やめてくれと思ったプレイヤーもいたのではないでしょうか。
アビー側の物語を描くということは、エリーの復讐の正当性を否定することになります。
従って、プレイヤーの行動動機を削ぐことになります。
だから普通はこのようなストーリーを描こうとはしません。
プレイヤーからの批判が殺到することは目に見えています(実際にレビューは低評価で溢れているようです)
しかし、ラストオブアスはそこを描きました。
私はこのことがすごく意味のあることに思います。
なぜなら、勧善懲悪で分かりやすい作品に、一石を投じることになるからです。
正義は悪があってこそ生まれるもの
正義のヒーローがいて、悪の組織をやっつける作品はたくさんあります。
ヒーローは敵の組織のメンバーをバッタバッタと倒していき、最終的にはボスをやっつけて、メデタシ、メデタシ。
しかし倒されて行った敵の一味のひとりひとりには、大事な人たちがいるのではないでしょうか。
まず間違いなく親がいます。
自分の家族がいるかもしれません。子供もいるかも。
そういうことを考えたことはあったけど、そんなこと言ってたら物語が進みません。
何より、ヒーローが敵を倒す正当性が失われてしまい、見る側が感情移入できなくなります。
普通、まず製作側と見る側とのお約束事として、正義のヒーローは正しく、悪の組織は絶対に悪いという構図が共有されていなくてはなりません。
しかし僕はずっと、このアメリカ的な、正義と悪の二元論に違和感を感じ続けてきました。
正義から見た悪は確かに悪だけど、悪側から見た正義はどうなのか。
悪側にとっては自分たちが正義で、正義とされているものが悪なのではないか。
ややこしくなりましたが、コインの表裏のようにして、表から見たもう一面は裏だけど、裏返したら逆になるのです。
何かの正当性を主張しようとすると、それ以外は間違っていると言わなければならなくなります。
つまり正義とは、悪を定義して初めて成立するのです。
まさにエリーとアビーの関係です。
エリーにとってはジョエルを殺したアビーが悪で、
アビーにとっては父親を殺したジョエルが悪なのです。
正義と悪を考えた時、ちょうど今アメリカで起きている Black lives matter 運動のことを思い出しました。
これは、アメリカ人は白人であるべきだと主張する人たちが正義感を使って相対敵を作り、自分達の正当性を主張しようとしているために起きていると思います。
本作は、この正義と悪を両面から描き、プレイヤーに両方からプレイさせました。
その複雑さはプレイヤーにあらゆる感情を生んだでしょう。
かくいう私も、あらゆる感情を抱きながらプレイしていました。
物語の終結に見えるもの
一度ならず二度までも見逃してもらったにも関わらず、エリーは再びアビーのもとに行きます。
愛するものを置き去りにしても。
エリーにとっては、アビーが復讐の相手と言うよりも、もはや生きる意味そのものになっていたのではないでしょうか。
皮肉にも、アビーがエリーを生かしていたのです。
そして最後の最後、エリーはアビーにトドメを刺しませんでした。
許す、というのかどういった感情なのか、我々には理解できない思いでしょう。
最終的に二人は違うボートに乗り、それぞれ別の方向へと進んでいきます。
復讐の相手を失い、愛する者も失ったエリーがどこへ向かったのかー
とにかく壮絶な物語でした。
この作品を作り上げ、完成まで持ち込んだノーティドッグには、称賛の言葉しかありません。
この作品を作ることが、どれほど苦しいことなのか、想像しかできませんが、
あまりに重く、苦しい作業となったでしょう。
私自身本作に対する結論が出たわけでなく、あまりに多くの議論の余地があると思います。
批判も多いようですが、私は批判の数だけ、この作品が世に出た価値があると思っています。
もうこんな作品2度と出会えないんじゃないかとすら思っています。
とりあえずはこの辺にして、じっくりと2周目のプレイを始めようかと思います。
読んでいただきありがとうございました
とみた
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