見出し画像

アジアでの「プロサッカー選手」という職業を捨てた日本人GKがヨーロッパの地でスタートラインに立った話。

OWL magazineをご覧の皆様こんにちは。ジブラルタル🇬🇮という国でサッカーをしております。冨澤拓海です。


初回の投稿から時間が空いてしまいましたが日本から遥か彼方のヨーロッパにて今日もサッカーボールに食らいついています。今日は2019年12月の「僕にとっての開幕戦」の話です。ところどころ熱くなってしまいそうですが最後までご覧いただけますと幸いです。


12/7僕はようやくGibraltar National Leagueのピッチに立った。

シーズン開幕から4ヶ月以上が過ぎていた。なんと14ヶ月ぶりに国内トップリーグの試合に出場した。その試合を勝利で終えた。

最後に公式戦のピッチに立ったのは2018年の10月6日。

画像1

あれから14ヶ月が経った。
その試合はモンゴルでの地での集大成。

2017年モンゴルでプロ契約をして1シーズンを過ごし、唯一の外国人として2018年も契約を更新した。チームはオーナーも含めて大きな変化があった。そしてチームとしてメダル獲得を狙った2018年シーズン。

チームは11戦負けなしという記録を樹立し、引き分け以上でメダル獲得の最終節。結果は2-2の引き分けで3位。

僕はプロサッカー選手として銅メダルを手にしそれまでのサッカー人生で最も充実した時を味わった。

画像2

自分で言ってしまうが、モンゴルではそれなりの地位を築いたと思う。

1部リーグ昇格初年度から所属したチームは昨年3位になった。外国人としてチームで唯一2年プレーし続け、昨季はシーズン全試合に出場した。チームとの契約は残り2年あった。更にありがたいことに今年モンゴル国内の数チームからオファーが届いた。アジアの他の国から代理人を通じて話をもらった。


ただそれでも僕はチームと双方合意のもと


プロサッカー選手という職を自ら捨てた。

それはどうしてもヨーロッパでプレーしたかったから。

5月にある国にトライアルに行ったのだがそれは下の有料ページでリアルに金額も含め記載するので気になる人は読んでほしい。


紆余曲折はあったが、たどり着いた先はジブラルタル。
ジブラルタルはイギリスの海外領土でスペインに隣接した独立国家。人口は約3万人で公用語は英語とスペイン語。アフリカにもとても近く地形もジブラルタルロックが国土の多くを占める変わった土地。

画像3

数年前に父が録画したジブラルタルがUEFAに加盟したという番組の録画を見てから知っていたジブラルタル。一切コネクションのない中、協会のホームページにアクセスし、各チームの連絡先をエクセルにまとめた。そして各チームのSNSもリストアップし片っ端から国際電話することでチャンスを探った。

通常イギリスはよく代表選手のプレミア移籍で話題になるが、ビザが取得が非常に難しい。ただジブラルタルは独立国家なのでもしかしたら違うかもと思いジブラルタルサッカー協会、在日本イギリス大使館、在イギリス日本大使館、隣接するスペインならわかるかもと日本国スペイン大使館など多くのところに電話をかけた。


前例がなかったから誰からもわからないと言われた。

ジブラルタルには日本の大使館はない。ジブラルタルの移民局にも電話をした。本当に様々なところに電話をしてなんとなくサッカーはできそうだということがわかった。

そして様々なチーム、チーム関係者に電話とメッセージをし7月初旬にジブラルタルで今のチームのトライアルを受けられることになった。


行った時にはトライアルには40名以上の選手がいた。イギリス人、スペイン人、アルゼンチン人等沢山いた。もちろんアジア人は僕だけだった。

練習の途中に帰宅を命じられる選手もいながらもなんとか最後の数人まで残ることができた。

ただなかなか僕に契約書は出てこなかった。そして新たなGKが来た。

監督がジブラルタル代表監督をしていた時によく使っていた選手だった。


今でも覚えている。実は5月からあるヨーロッパ某国の4部リーグからオファーをもらっていた。その国の2部のチームを受けており、そこでのパフォーマンスを知った4部のチームの監督が興味を持ってくれ、オファーが来た。
正直なところかなり高待遇でのオファーだった。充分に暮らせるしモンゴルでの条件とも変わらなかったように思う。

そのリーグの移籍期限は7/31の22:00。

一方でジブラルタルは8月中も移籍期間のためテストの結果によって返事をしようと思っていたのだ。

僕はそこまで某国チームからのオファーの返事を引き伸ばしていた。

そして7/31の19:00にジブラルタルの監督から1番手ではあまり考えてないから、お前のためを考えるなら某国のチームに行けと連絡がGKコーチを通じて来た。

遅すぎた。流石に移籍期限当日ギリギリまでは待ってくれていなかった。

そして僕はジブラルタルに残ることになった。
チームはその10日後に契約できたがジブラルタル国内の他チームの消滅によりそのチームからU-23の代表のキーパーが来たのは予想外だった。

監督が選手時代GKだったので選手選考は彼が行なった。僕はずっと3番手のベンチ外。リザーブリーグのU-23の試合のみしか出番がなかった。

練習でもトミはGK練習だけ。ゲームは見てろ。そんなのばかりだった。


完全に蚊帳の外だった。

難しいスタートになるとは思ってたけど予想以上だった。
練習で挽回するチャンスすら与えられなかった。ただGKコーチだけは常にチャンスを待てと言い続けてくれた。


転機が訪れたのは10月中旬。監督が解任された。アシスタントコーチが暫定監督になり、チャンスが来たと思った。彼は一緒に住んでいて僕のプレースタイルも良いところも知ってくれていたから。

しかし状況は変わらなかった。

その上、11月初旬に膝を怪我した。ボールを蹴るどころか歩くのも辛かった。
俺ここに何をしに来ているんだろう、そんなことを思う日が続いた。

そして怪我をして歩けなくなった週にまた監督が解任された。
新監督が来て、完全に新しいチームになる中僕はピッチの外からリハビリをしながら練習を眺めているしかなかった。ただその中で自分にチャンスが来る、そんな予感がしていた。特に根拠があったわけではなく完全なる勘だ。


そして23歳の誕生日を迎える週に父が遊びに来た。しかし試合に出場する機会を見せることが出来なかった。父を空港まで送った帰り道、悔しくて泣いた。

いつもローカルバスの中でうるさくてイライラする乗客のスペイン人が何か慰めてくれた。何を言っているかはほとんど分からなかったけどその時はとてもありがたかった。


それが11月末の話。
そして痛みはありながらも練習には復帰した。チームは連敗。

12月1週目の火曜日のリザーブリーグに出る事になりその試合を監督が視察に来た。
試合には負けたけど、土曜日の試合に起用すると次の日に言われた。


やるしかない。そう思った。

そして迎えたその週の土曜日。

ジブラルタルに来てから5ヶ月。ようやく出番が回って来た。膝の怪我もあり、身体は万全ではなかったが、自分ができることを100%やる。やることがシンプルな分すごく冷静になることが出来た。

画像4

vs Europa Point FC

結果は3-1で勝利。

前半PKから失点したもののチームの連敗をストップさせることができた。
前半と後半に2回、試合のターニングポイントになったビッグセーブが出た。
去年からやってきた武器、スプレッドのブロッキングが出た。

※1対1の際に身体を大きく広げて手でなく身体を面にしてシュートブロックする技術。


試合が終わった時、嬉しさと共にホッとした自分がいた。同時にようやく僕のヨーロッパでのフットボールライフがようやく始まるのかな、そう思えた。

日本で街中で歩いてても誰も僕をサッカー選手だとは思わないぐらい、日本でも身長の低い僕。

背が低いから誰も僕のことを知らない土地で選手として評価してもらうのにはどこでも時間がかかると思っている。
ただ海外に選手として来ているのに試合に出れないのはやはり堪える。

画像5

フットボーラーとしてだけでなく自分自身が否定された気になる時もあった。

ただそんな僕を支えて、応援してくれる人々がいることが僕の恵まれているところだ。この先試合に出られることが確定しているわけでもない。
活躍できる確証もない。

画像6

ただこの1勝が僕にとって忘れられない勝利になることは間違いない。
僕のジブラルタルフットボールは始まったばかりだ。

画像7


11月に行ったドイツ、エッセンにて。3日休みあったら旅ができちゃうのはヨーロッパに住む魅力です。

画像8

「OWL magazineは月額700円のウェブ雑誌です。ご購読いただけると毎月15~20記事が読み放題になります。是非ご購読よろしくお願いします。」
以下は有料コンテンツとさせていただきます。僕のリアルな給料事情も話します。興味ある人はぜひご購読ください。

ここから先は

566字 / 1画像
スポーツと旅を通じて人の繋がりが生まれ、人の繋がりによって、新たな旅が生まれていきます。旅を消費するのではなく旅によって価値を生み出していくことを目指したマガジンです。 毎月15〜20本の記事を更新しています。寄稿も随時受け付けています。

サポーターはあくまでも応援者であり、言ってしまえばサッカー界の脇役といえます。しかしながら、スポーツツーリズムという文脈においては、サポー…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?