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【春秋一話】05月 情けはひとのためならず

2022年5月23日第7145号

 諺に限らず慣用語を間違って解釈して誤用しているということがある。例えば「役不足」という言葉を「私には役不足です」などと謙遜したつもりで言うことがあるが、これは誤用である。本来は「実力に比べて役割が低すぎる」という全く逆の意味である。同様に「情けはひとのためならず」も誤用しやすい諺である。
 かなり以前の話だが筆者が学生の頃、友人から何か頼まれごとをしたことがある。あまり大した内容ではなかったこともあり、この頼まれごとに応じることはあまり彼のためにならないのではないかと思い、私はそれを断り「『情けはひとのためならず』って言うだろう」と彼に告げた。性格の良い友人であったこともあり、また頼みごと自体も彼にとってそれほど重要なことではなかったからだろう、私が断ったことに不満を漏らすことはなかったのだが、一言「その諺の使い方は間違っている」と告げられた。
 その場ではそのまま友人と別れ、その後一人になってからこの諺の意味を調べてみて恥ずかしくなってしまった。この諺の本来の意味は「情けをかけることはそのひとのためにならない」ということではなく、「情けをかけるのはその人のためではなく、いずれ自分自身に返ってくることになる」という意味だと知った。誤解していた意味の場合は「ひとのためにならず」となるべきで、「ひとのためならず」というのは「ひとのためではなく」という意味であり、翻って後々に自分に返ってくるという意味だということを知った。
 一昨年のコロナ禍以来、周囲の人に気を遣うということについて語られることが多くなり、その際に「情け」や「利他」という言葉をよく聞くようになった。「利他」は、「利己主義」などとして使われる「利己」に対する言葉だが、特にコロナ禍以降、様々なメディアでも採り上げられるようになった。
 日本では感染予防対策として「ソーシャルディスタンス」「マスク着用」「三密」などが政府から要請された。自身の感染予防ももちろんだが他者に感染をさせない予防対策として、日本人はこれに従順に従い、外国のようにデモや反対集会が開催されることなどほぼ聞くことがなく、感染予防対策のための行動を守り、自身への感染だけでなく、周囲へ感染予防も自然に行ってきている。
 一方、「情け」や「利他」という言葉には独特の「うさん臭さ」が感じられるのも事実である。利他的な行動に積極的な人に対して「偽善者」とレッテルを貼ったり、利他的な振る舞いをすることで「善い人」というセルフイメージを獲得しようとする利己的な行為なのではないかという疑念が湧き起こってしまうということだ。
 しかし本来「情け」も「利他」もそのような利己的な行為ではなく、自身では思ってもいなかったことが結果的には相手のためになっていたという行為だ。意識せずに行ったことが結果的に「情け」や「利他」となっていて、思いもかけずに結果的に相手に喜ばれることになっているような行為である。
 このように「情け」も「利他」も「自分が」ということを排するところに真の意味がある。この2年間のコロナ禍の中で、日本人は特にこの「思いがけず」に「情け」や「利他」を経験してきたと言えるのではないだろうか。
 コロナ禍もいつまでも続かず、いずれは以前のような平常に戻ることになるだろう。しかし、このコロナ禍を通じて得た「利他」という精神は、我々日本人にとって貴重な経験であり、決して失わずに後世に伝わるように努めていくべきことではないだろうか。
(多摩の翡翠)



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