【春秋一話】 9月 太宰治と芥川賞の因縁
通信文化新報(2020年9月7日 第7056号)
令和2年上期の芥川賞、直木賞が7月15日に発表され、芥川賞は、高山羽根子氏の「首里の馬」、遠野遥氏の「破局」の2作品に、直木賞は、馳星周氏の「少年と犬」が受賞した。
上期の選考候補作については前年12月から本年5月までの6か月間に発表された作品が対象となり、芥川賞については6月16日に候補作5作品が発表された。その時点から「赤い砂を蹴る」が候補となった劇作家の石原燃という女性作家が話題となった。作家にとって作品が話題になることが本望だろうが、今回候補になった石原燃氏の話題は、その母が津島佑子という作家であることもあるが、それより太宰治の孫にあたることの方が話題に上っていた。
というのも、太宰治と芥川賞といえば1935(昭和10)年の第1回同賞の候補作に「逆行」という小説が最終候補になりながら落選し、以降受賞できなかったという因縁があるからだ。第1回の同賞は石川達三氏の「蒼氓」が受賞したが、選考委員の一人であった川端康成が太宰の作品に対して「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾(うら)みあった」と評し、太宰はこの選評に対して「文学賞が作品ではなく作家の生活態度の評価で決まってしまってよいものでしょうか」と憤怒のエッセイを公表している。
この年、太宰は26歳であるが、大学在学中の心中騒動や鎮痛剤として使用したパビナール中毒など問題のある生活を送っていたことは確かである。しかし、学生時代から小説家を目指し、井伏鱒二に師事していた太宰にとって、この落選は相当にショックだったのだろう。その後も太宰の芥川賞への執着は強く、翌年、選考委員だった佐藤春夫に受賞を懇願する手紙を書き、また作品集「晩年」出版時には、川端康成に書籍とともに「私を見殺しにしないでください」との手紙を送っている。しかし翌年以降に太宰の作品が候補作として挙げられることはなかった。
28歳となった年、師事していた井伏が太宰のすさんだ生活を変える為に、自分が滞在していた富士のよく見える山梨県御坂峠に招待する。こうした気分転換が功を奏し、徐々に太宰の生活は安定していく。その頃に井伏の紹介で石原美知子と見合い結婚し、東京・三鷹に転居、二女一男をもうける。
太宰は最期38歳で山崎富江という女性と入水自殺して亡くなるが、妻の津島美智子にあてた遺書に「誰よりもお前を愛していました」と残している。彼女との結婚生活の中に彼にとっての一時期の幸せを感じていたのかもしれない。その次女の子が太宰にとって孫となる石原燃氏である。
石原というペンネームは祖母の旧姓を使ったのかもしれない。つまり祖父の太宰、津島姓を否定したということか。石原氏の作品に対する選評には、「平凡と言うほかない」という選者と「今回自分は一番推した」という選者がいた。文学作品の捉え方は様々だが、このような選評があるだけでも将来性はあるように感じる。
コロナ禍の中、文化芸術のイベントが中止されるなど不要不急と扱われている。しかし、人類の歴史を見ても文化芸術が果たしてきた役割は計り知れない。少なくとも文学は中止をされるものではない。今回のような話題でも構わない、少しでも多くの方が文学に触れ、文化芸術に心を癒され、それが普通となる生活に早く戻ることを祈るばかりである。
(多摩の翡翠<カワセミ>)
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