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「死」とは、バトンをつなぐことなのだろうか?

今日は義理のお父さんの13回忌の法事に出かけた。

正直私はあまり宗教に対して熱心ではない。

年齢的にものや日本人としての常識レベルとしての付き合いレベルだと思う。

そんなレベルなのだが、ただ一つお寺に行く楽しみがある。

それは、お坊さんの説教を聞くこと。

お坊さんの説教は哲学である。

いつも、心に残る話をしてくれる。

今回は、散骨についての話があった。

散骨の話だった。

奥さんの遺言で「海が大好きだったから、死んだら海に散骨してほしい」と話をしてあった。
そして、旦那さんはその遺言どおりに海に散骨した。
その後の話。
バラ園を散歩に出かけるとそこに墓地がありお参りをしていた家族がいた。
それを見た旦那さんは、散骨をとても後悔したらしい。
どうやら、こんな例は特別ではないらしく葬儀屋さんが少し残しておいたお骨を渡して、お墓を建てた。
お参りをする場所ができることで、やっとその旦那さんは安心した。とのこと。

故人に向けてなにか伝えたいこと、自分の気持ちに整理をしたい時など手を合わせる場所が必要ではないか。という話だった。

宗教の自由や散骨を否定するわけにはいかないので、ちょっと歯切れの悪い話であったが、感じることのできた話だった。

自分の死んだあとの「骨」

好きな場所に撒いて欲しい。たしかに一見綺麗な話だ。

それは自分とっての「死」を受け止めて出した一つの答えなのかもしれない。

しかし、残されたものは死んでからその事実を受け止めなければならない。

死というのは、自分ごとと考えるならば、死ぬまでにどう受け止めていくのか?ということになる。
しかし、親近者は死んてから受け止めなければならない。

となると「死」とは、自分自身が受け止めることもとても大切だと思うが、残された人たちに何を残すのか?と言うことも大切ということになる。

仏教なので、「死」がベースで「生」が奇跡って考え方なのでなおさら理解できる。

要はバトンを、とう渡していくのか?ってことなのだろう。

こうやって、「死」を考えるきっかけを作ってくれ、有り難い説教でした。

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