のらねこ、日本政府のだらしなさが分からない
皆さん、常日頃からしみじみと思ってるかと存じます。
日本政府って、基本だらしないですよね。
判断は遅い、国民のこと考えてない、法律は“とりあえず”で運用して後からトラブルを起こす、そんで諸外国には弱腰。
そんな政府、存在する意味なんて本当にあるんでしょうか。
こんなことなら、いっそ日本を解体して藩制度を復活させた方が、まだマシな社会になるんじゃないの?
さて、どうでしょう~??
皆さま、いつもお読みいただきありがとうございます。
あるいは初めましての方、久しぶりの方もとても嬉しいです。
僕は目標管理Webサービス Project Sylphius の開発・運営をしています、TOMCAT HEART の中島です。
何か楽しいことないかなって、いつも思っちゃう。
そのくせ自分から何かをするわけではない。
楽しいことに対して受け身で、何をしたらいいか分からない。
そんな人が今すぐ始めるべきことは “何か” ではありません。
“目標管理” です。
目標がないからすべきことが分からないし、楽しむこともできないのです。
この のらねこに何ができる? は、だったら目標管理なんてどうやるの? という疑問にお答えすべく、僕が自分で計画して自分で成しえてきた様々なことを、なるだけ面白く書いてお届けする内容となっております。
現在は “のら地球人に日本が分かる?” シリーズを連載中です。
英語をはじめイタリア語・スペイン語・トルコ語と様々な言語を学んでいる僕は、いろんな国の文化に多角的に触れやすい立場にあります。
そういう立場にいないと分からない日本、海外のことを知らないと見えてこない日本の姿。
今回はそういったものを書いていけたらと思っています。
1. 古い日本人の“海外感”
昭和時代をご存知の方には周知のとおり、昔の日本人は、海外をキラキラピカピカで立派な国だと思う傾向がありました。
アメリカはとにかく凄い国。強くてたくましい、男性的な力の象徴。
そしてフランスは綺麗な国。芸術的で煌びやか、女性的な美の象徴。
それ以外の国? え? 知らない。この2つ以外にあるの?
そうそう、「この帽子ドイツんだ、オランダ」って言うくらいだから、全部で4つだね! すごい!
西洋とか欧米といったらアメリカのみを指す言葉だったし、南蛮がどこの国かも分からない。
、、、まぁ、国際教育が行われる前の日本人の観念なんて、こんなモンだったんスよ。マジで。
そういう時代だったし、国際情勢なんて誰も知らなかったから、“諸外国” という言葉が 理想郷 って意味で使われることすらありました。
まぁ現在では、時代は巡り巡って、そんな考え方もすっかり下火。
欧米がヨーロッパを含む言い方であることも、ヨーロッパに数十の国があることも、それから欧米だけが外国じゃないことも、南蛮がどこかってことも誰でも知っています!(ね?)
でも、、、
仮に諸外国が決して理想郷じゃないことを知っていたとしても、それを心からちゃんと実感している人がどれくらいいるでしょうか。
ほとんどの人は、外国のことを知識的に知っているだけです。
それが証拠に、日本という政府が外国からどう映っているか、語れる人はほとんどいません。
2. 政府とは何のために存在するのか
日本という小さな国の、これまた小さな町の片隅で、生きづらさ暮らしにくさを嘆きながら日々を過ごしていると、たまに政府なんて概念はいっそ存在しない方がマシな気がしてくものです。
だって、政府がなければ何もかもが自由ですからね。
横断歩道は渡り放題!
燃えるゴミを火曜日に捨てても怒られない!
キノコ・タケノコどっちも好きでいいじゃない!
そう、何もかもが自由!!
でも残念ながら、その想像はあくまで “自分だけが自由” だった場合のイメージにすぎません。
実際には政府が存在しないと、自分だけでなく誰もが自由になります。
殺人は罪にならず、結婚できるのは女をさらってこれる人だけ、弱者は火炎放射器で消毒される。
そんな社会、嫌でしょ?
みんながあまりに自由に振る舞いすぎると、やがてみんな殺し合いを始めて人類は絶滅まっしぐらなので、それを防ぐルールが必要になりました。
いや、必要になったというのはむしろ逆で、ルールを順守する習性を持った個体だけが生き残ったのが今の人類なんです。
このとき、人間が自然に寄り集まってできる集団のことを コミュニティ と呼びます。
時折「コミュニティの最小単位は家族だ」という言い回しを聞きますが、人間のそのルールを順守しようとする習性に注目した場合、コミュニティの最小単位は “集落” です。
家族にも、通常多くは暗黙のルールがありますが、これは常に必ず絶対ではありません。
確実にルールがあるのは集落以上のサイズの集団です。
ただ時代が進むと、集団同士は自然の恵みを奪い合う争いをし、その結果、次第に大きな力を欲するようになります。
望む望まざるにかかわらず、敵が強くなるもんだから、こっちも武装強化せざるをえなくなるのです。
そうやって、人間は時代とともにコミュニティをごく自然に巨大化させてきました。
だからこれも逆ですね。
コミュニティの巨大化に成功した人達だけが今に生き残ってるんです。
人間は、決して神に無理やりまとめられてるわけではありません。
人間は、ごく自然に集まってごく自然にルールを作る生き物なんです。
だから元をたどれば、国家とは基本的には、自然に集まった人達の集合体にすぎません。
そしてそれを一般には、烏合の衆と呼びます。
国家が、大きくなればなるほど意思決定が遅くなるのも、根っこは烏合の衆だからです。
国家が何のために存在するのかといえば、集まることに意味があったわけじゃなく、人が集まったもののことを国家と呼んでいるに過ぎないのです。
それが気に食わない人は、未開のジャングルなり無人島なり、どこへでも好きに行くヨロシ。
3. “理想の国”は存在するのか
ニュースのコラム記事を読んでいると、「諸外国では」「欧米では」という言い回しをやたら好む人がいますよね。
海外ではこんなやり方をやっている
だから日本も真似るべきだ
といった論調で使われることが多いです。
ただ、そういう人達のいう諸外国は、具体的に特定の国を指しているわけではないことも多いようです。
その人にとっての理想郷が頭の中にあって、その国を基準に日本を語る傾向があるのです。
当然ながら、そんな国は実際には存在しません。
だとすれば、仮に日本が参考にするに足る理想郷はなくても、“諸外国と呼ぶにふさわしい典型的な国” はないのでしょうか。
ご存知の通り、そんな国はないのです。
なぜなら世界中の国家は全て烏合の衆を祖としていて、例外はありえないからです。
ですので何らかの要素が日本よりちゃんとしている国があるとしたら、その国の “その部分がちゃんとしてる” ことには理由と歴史があって、その部分だけがちゃんとしてるのであって、その国の人達が無条件に何もかも素晴らしいかってぇと、そういうわけじゃないのです
ですが半面、なにかにつけてだらしない国があるとしたら、その国がだらしないことには特に理由はありません。
なぜなら、だらしないのは人間としての本質だからです。
世界中どこへ行こうと、それは同じです。
日本に絶望して海外へ引っ越そうとも、そこが “人間たちのいるところ” なのは同じなんです。
常日頃から日本が気に食わない人は、日本にちゃんとした国に『今すぐなってほしい』のかもしれません。
でもそれは無理な話で、なぜなら国家とは、烏合の衆が次第に大きくなったものにすぎないからです。
日本がちゃんとした国になるには、歴史を紡ぐ以外にはもうどうしようもないわけです。
そうではない、あまりちゃんとしてない現在の日本でちゃんと生きていこうと思ったら、改革運動とかにエネルギーを費やすよりも、現状の日本でなら何が楽しめるかに頭を悩ませた方が有意義なんじゃないかなと思うのです。
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ここまでお読みいただきありがとうございました。
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