「父に、ありがとう。母に、さようなら。そして、全ての子供達<チルドレン>におめでとう。」 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想 ※ネタバレあり

ネタバレを含む感想である。それ故、映画を見た後に読むことを推奨する。各考察はより世界観に詳しい人に任せるとして(言葉にするにはあと数回見なければならなく、また様々な事象に詳しくなってからではないと難しい)、今回は感想を書きたい。

ちなみに、このタイトルはTVシリーズ最終回での有名なセリフであり、今回の劇場版(以下「シン」)とはとくに関係が無いので、安心してほしい。



◆せめて、人間らしく
普通に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(以下「Q」)の続きであった。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(以下「破」)から「Q」では、14年後の世界だったので驚いたが、今回はシンジ、レイ、アスカの3人がどこかへと向かった「Q」のラストから始まる。

ここで「ヴンダー」のクルーはまだしも、14年後のシンジ達の同級生はどうしたのだろうという「Q」の疑問が「シン」にて消化される。「ヴィレ」管理下にある汚染されていない村にて、トウジが医者となり、さらにトウジは委員長ことヒカリと結婚しており子育て真っ最中だった。そしてケンスケも登場する。もはや同窓会のような様相でもあった。

村では、レイによる牧歌的な生活が始まり、なんとものんびりとした空気が醸し出されていた。ここだけ抜き出されてゲーム化されてもおかしくないレベルである。「破」などにあった学園生活さながら、どことなくほんわかした雰囲気で、そして「Q」にあった窮屈な世界とは異なり、村人全員が優しい世界。このシーンがあっただけでも「Q」で見せられた鬱屈とした思いを解放された気持ちににもなった。

シンジは「Q」で負った精神的ダメージをずっと引きずって寝てばっかりのニート生活。アスカはワンダースワン(のようなゲーム機)で「グンペイ」三昧で、レイだけが無知で無垢な少女であり村での生活を教えられていくのだが、ここはゲームであったような「綾波育成計画」の一端でもあるのかもしれない。

が、この「綾波育成計画」は突如終焉し、ネルフとの最終決戦へと展開する。正直、ここからは一回見ただけで理解するのは難しかったので感想は割愛したい。



◆命の選択を
選択肢やフラグ管理などの分岐と、それに紐づく複数のエンディングがあるゲームのように、『エヴァンゲリオン』も、ありえたかもしれない世界=「可能世界」の話である。

TVシリーズや旧劇場版だけではなく、コミックやゲームなど「カラー」(または「ガイナックス」)が版権を持つ『エヴァンゲリオン』シリーズは多々あるが、我々はどの終わり方が良かったかを選択できる権利を持っているのだ。

個人的には、コミックの『碇シンジ育成計画』の世界が好きなので、これを正史として捉えたい。(もちろん「本編」があってこそなのだが、何をもって「本編」なのかも議論が分かれるところでもある)。


また「可能世界」という概念は今回の劇場版でも重要な要素となっている。むしろこの「可能世界」があるからこそ、『エヴァンゲリオン』を紐解く上での難解な要因となっていると言っても過言ではない。

実際、今回の劇中では、シンジの記憶に基づいた過去シーンでゲンドウが乗ったエヴァとシンジが戦っていた。中には、ミサトの部屋と思わしき場所でも戦っていたが、これらのシーンは全てオフィシャルで管理している『エヴァンゲリオン』シリーズを総括していると感じた。

そもそも「シン」を漢字変換すると、新、心、真、清、信、辛、審、神……などで表すことができて、これもまた受け手によった解釈を選択することも出来るのだ。


◆終わる世界
終盤はゲンドウやカヲル、レイなど各キャラクターが浄化・解脱されていくのだが、こうして浄化が終わった数年後のラストシーンでは、とうとうシンジたち(チルドレン)が大人になり、成長してしまった姿を描いたのだ。

そして、まさかの"マリEND"になったのはただただ驚いた。レイ、アスカ、そしてカヲルENDもありえる中、一番の新参キャラであるマリがシンジの伴侶として選ばれたのである。

これは「おまえらもレイだのアスカだの言ってないで、いい加減大人になれよ」というメッセージとして捉えたい。


……あらためて思うことなのだが、本当に『エヴァンゲリオン』が終わってしまった。予告もなかったし、終劇である。なんだか喪失感すらある。

TVシリーズ放送当時の1995年は『新世紀エヴァンゲリオン』が映らない地域だったので、雑誌などで話題になっていることを聞くのみだった。上京後にビデオを借りて一気視聴して以来、20年以上『エヴァンゲリオン』に触れてきた。

放送当時、シンジと同年代だった自分がゲンドウに近い年齢になり、またゲンドウのようなヒゲすら生やすようになった。

2012年に公開された「Q」の時ですら「いい加減終わってほしい」という呪縛は少なからずあったので、今回のこの終わり方は、純粋にこれでいいのだ、とすんなり受け入れられた。旧劇場版にあったアスカが首を絞めての「気持ち悪い」ENDではなく、ハッピーエンドとすら思っている。我々もまたこうして解放・浄化されたのだ。

今後、庵野監督はもう『エヴァンゲリオン』を作らないはずだ。「破」と「Q」の空白の14年間を描く可能性もあるが、「シン」ではこの14年間を断片的に語られているので、これは我々が脳内で「補完」していかなければならない。


最後に、あらためて言いたい。

父(庵野監督)に、ありがとう。母(エヴァンゲリオン)に、さようなら。そして、すべての子供達(ファン)に、おめでとう。

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