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「赤とんぼ」の町で酒盃を交わす

「赤とんぼ」という歌がいつも心にあって、昔を思い出したりするたびに頭のなかで歌っている。幼少時に仰ぎ見た赤トンボの乱舞がよほど心の深みに働きかけているらしく、ハーモニカで高校時代に吹いたのも、東京に下宿して、夕暮れの上野公園のベンチで吹いたのも「赤とんぼ」だった。

作者の三木露風にとって、「私に詩思を与えたのは、故郷の山川である」というほどに龍野の自然は作品のふるさとであったし、五歳にして別れた母の面影を懐古する場所でもあった。龍野というまちに一度行ってみたい。その思いは龍野で古本屋を営む吉田さんとの偶然で、不思議な出会いによっていっそう募った。それは四年ほど前の、ぼくが大病を患った頃のことだった。仔細は省くが、一本の電話から始まって、面識もない無類の本好き同士すっかり打ち解けて昔からの知己のように心で繋がった。入院する前には葉書をいただき、そこにはパステルで描かれた卓越したセンスが光る花の絵と、余白に励ましの言葉が添えられていた。吉田さんは古本屋の主であるとともにパステル画家でもあった。

〈九濃文庫の最后の仕事となりますイベントを十月に行います。ぜひ龍野へきて下さい〉。そんな手紙を受けとったのは昨年の夏のことだった。八十歳を目前にした吉田さんが、体力のあるうちに店じまいを決意したというのだ。三月の閉店に向けて本を処分しているという。いくらか悲壮感の漂う手紙だった。思い切って安宿を予約して新幹線に乗った。姫路でJR姫新線に乗り換える。二両編成の電車はトコトコと山あいを抜けて二十分。本竜野駅に降り立つと駅前はひっそり閑としていた。十月とはいえ夏のような暑さで、空は雲ひとつなく晴れ渡っている。白壁に板塀、黒の屋根瓦といった城下町の面影が残るひそやかな街の中ほどに九濃文庫はあった。

初対面の吉田さんに挨拶すると、「遠くからよく来てくれて……」と相好を崩す。想像していた通りの好々爺だった。一渡り棚を見た後、接客で忙しい吉田さんにちょっと街を歩きたいと告げて、露風や三木清などの資料を展示する霞城館に向かう。そして三木露風の生家へ。

露風が生きていた時代もひとけのない静かな街だったらしい。途上、姐やに背負われた幼い露風の幻を見た気がした。夜は揖保川のほとりの赤提灯で吉田さんと酒盃を交わす。手には一冊の文庫本、話題は本や作家のこと。ようやく龍野にやって来た。そんな嬉しさが自ずと溢れてきた。

(2024.1 ハーモニカライフ103号に掲載)

岡本吉生
-Profile-

日本唯一のハーモニカ専門店「コアアートスクエア」の代表。教室を主宰するほか、1996年にはカルテット「The Who-hooo」を結成。全国各地に招かれて演奏活動を続ける。
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