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夜はいつでも回転している

98夜 グラスパー

 
既に閉店の時刻は過ぎていた。客の面々は誰も帰る気配がない。店主は仕事中には飲まないビールを飲み始めている。こういう夜はある。帰りを拒むような心地よくて濃密な暗闇が店の外に充満している。店にはたっぷり酒もつまみもある。いつもなら店の二階で眠っている店主の家族も今夜はいない。レコードの針が上がるタイミングを見計らったように男が入ってくる。男はロバート・グラスパーの最新のレコードを持って入ってきた。最初にここのスピーカーで聴きたかったと言って一番端の席へ座る。店主は男が入ってくる瞬間にビールを注いで男がカウンターに座るのと同時にグラスを男の前に置いてグラスパーのレコードを受け取った。全ては無音だった。誰も喋らなかった。そこには既にグルーヴが発生していた。レコードに針を落として曲が流れる。曲に合わせてグラスに酒を注ぎ中華鍋を振るって宇宙の断片のような会話が続き僕はタバコが吸いたくなって店の外に出た。店のガラスのフィルターを通して聴くグラスパーも最高だった。煙草を吸っていると暗闇の空に何かが浮いていた。それは二階建ての一軒家ほどの大きさのビニール傘が開いた状態でより集まったものが浮遊していた。その中心が微かに発光し点滅していた。なんとなく巨大なクラゲのようにも見える。それはゆっくりと海の方へ向かっていった。煙草を吸い終わる頃には見えなくなっていた。レコードは三曲目が流れていた。
 

グラスパーのA面とB面を何度も往復して飲み続けた。やっぱりこの面子で飲むのは楽しいと思ったが、よく考えてみれば座る顔は今日初めて会ったばかりだった。名前すら知らない。それが堪らなく心地よかった。
 

そろそろお開きの時間だった。知らない星座がひしめき合っている夜は酔った奴を置き去りにするのが常だった。外は音のない雨が降っていた。ぼんやりと上を見上げて舌の先に雨の滴が落ちてくる。少しピリッとした。店に忘れ物の傘がいっぱいあると言って店主が奥へ行った。後ろを見たが一人足りない。グラスパーを持ってきた男はどこへ行ったんだろう?もう帰ったのか?他の面子に訊くと不思議そうな顔をしている。「誰のこと?」と言われたが僕にもそれはわからない。誰のこと?
 

店主が店の奥から戻ってきたが腑に落ちないといった表情だった。「傘がない」そう言いながら店主は空を見上げて煙草を吸いながら先ほどまで聴いていたグラスパーの曲を口ずさみ始めた。なんとなくみんなそれに合わせて靴をタップさせたり指を鳴らしたり舌を鳴らしたりしていたが、当然そんなレコードは存在しない。妙に頭が寒く感じて切ったばかりの髪をかき上げる。いつも帰る時にここが理髪店だということを忘れている。



                                                                                    End

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