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[暮らしっ句]たんぽぽ[鑑賞]


 だんまりをきめ たんぽぽの絮 吹いてゐる  内田美紗

 作者は女性なので、相手は子どもさんなんでしょう。作者が男性なら、むくれたのは彼女かと思うところでしたが、その発想自体が女性に対する偏見ですね。
 あ、でも、たんぽぽじゃなかったですけど、積もった雪でそんなシーンを見た覚えがあります。
 気まずい雰囲気のカップル。会話がない。視線を合わせない。で、おもむろに彼女の方が立ち上がって、柵の杭の上に積もった雪に顔を寄せて、フッと吹き飛ばしたのです。映画のシーンのように綺麗に飛散して、それで印象に残っていたのですが、女性は時にそういうことをやりますよね。
 でも、男性が女性をそういうものだと見なしたり、期待すると、それは違うんですね? むずかしいなあ。
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 たんぽぽの綿毛 蹴りつつ 人を恋ふ  片山桃弓

 誰かを恋しく思いながら、その思いがかなわない。そういう状況で、たんぽぽを蹴散らすと。そんな性格だから片想いなんだよ、とは云いませんよ。そんなふうに想像すると笑えますが、花を蹴散らしたんじゃなくて、あくまで綿毛。そこがまずポイント。
 綿毛だと、自分の思いが届けば良いのに、というニュアンスを帯びますから。でも、それを云いたいのなら、口を寄せてそっと吹くというような仕草になるでしょう。運んでおくれ、と。でも、そういう真似はしない。「蹴りつつ」です。攻撃的、怒りが感じられます。
 となると、見なければいけないのはその相手。もちろん、片想いの相手ではありませんね。交際して別れる時には、こじれることもありますが、これはたぶん片想いですから。おそらく粉砕したかった相手は、うじうじしてる自分自身。

 実は、最初は作者が女性だと思って解釈しました。字面からの単純な判断です。それでその時には、男前な女性だなあ、と軽く感心したんです。それでこの句を取り上げたというのが正直なところ。
 ところが、昨夜、投稿する直前に読み返していて、もしや男性? という気がして調べてみたのです。はっきりしたことはわからなかったのですが、一つ得られた手がかりは、戦争中か戦後すぐの作品があったこと。つまり、この作品も若い頃のことですから、戦争中か戦後すぐの経験と思われます。
 未練がましいような気持ちを自分で断ち切りたいとか、あるいは「蹴」という乱暴な表現がなされたのは、戦争という時代背景があってのことだったんです。そこは補足しておきたいと思います。
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 たんぽぽの絮 飛ばざるは 爪弾く  杉山瑞恵

 たんぽぽの絮(綿毛)は、飛散するための仕組みであって、残っているのは不幸なこと。爪弾くのは、やさしさです。
 でも、「爪弾く」の言葉からは、「つまはじき」が連想されます。イジメです。ところが、「やさしさ」と「イジメ」、どっちのイメージが勝ったかというと、今回は「やさしさ」のイメージが勝りました。「イジメ」自体を美化するつもりはないので、あくまで今回は、ということです。「イジメ」の中には、「オマエ、しっかりしろよ! そのままじゃだめだぞ」という叱咤激励が含まれていることもある。
 自分の経験で云うと、水泳の飛び込みがなかなか出来なかったんですよ。こわくて。で、ある日からわれた。追い詰められて、ようやく頭から飛び込むことが出来たんです。でも、また、からかわれた。「頭から落ちただけやん」と。
 それで今度は上手い者を見倣って、まっすぐに身体を伸ばすようにしたら、先生に褒められるまでになった。わずか一コマの授業の中での出来事です。「イジメ」にはそういう劇薬な面も確かにあります。綿毛も「爪弾」かれた時には、さぞ驚いたことでしょう~
 ただ、イジメを美談にすると、それも弊害がありそうなので、補足しておくと、同じ者たちのからかいで、死にかけたこともありました。「イジメ」る方は、神さまではありませんから、無茶なことを云ってくる時もあるのです。相手任せにしないで、やはり自分でしっかりと判断することも大事。
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 ちょっと雰囲気を変えて、わたしと同世代の句
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 定職はなし たんぽぽの絮を吹き  小川匠太郎
 たんぽぽの絮になるまで 自由なし  塚本務人

 この対比、おもしろいでしょ?
 上の句では、定職、つまり正社員ではないという意味だと思いますが、そんな自分は、吹けば飛ぶような存在だと自嘲している。
 しかし、おそらく正社員の立場で生きてこられた下の句の作者は、まったく逆のことを考えている。定年退職して、さらに五年か十年、働かないと、好きなことが出来ないと。
「自由」にはそういう二面性があるんでしょうね。
 外から見てると、うらやましいけれど、当事者にしてみれば、確かなものがない。いわる保障が無い。何かあればそれまで、というところで生きている。自由に飛び回っているかのような小鳥や虫は、危険と背中合わせ。安全を重視すれば、物陰に息を殺して生きたほうがいい。
 ただ、選べると思っている人は、すでにその時点で少し自由。選べないと思っている人は、自分で鎖を解けると気づくまでに時間がかかりそう。だから、どっちがいいということではありませんけど。
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 世知辛い話になったので、最後は何とか泥池から頭を出してみましょう。
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 野佛の笑みに たんぽぽ すみれ咲く  吉田多美

 もし今の時代、釈尊が生きておられたら、どうされるんでしょうね。釈尊が大統領になれば世界は救われるんでしょうか? たぶん無理。政治や行政には無力。というか、そういうのとは違うところで苦しみからの解脱を求めて達成された。
 じゃあ、我々としてはどうすればいいのか。会いに行って弟子になればいいのか? そういう人も世界で何万人かくらいはいそうですが、なかなかそんな真似は出来ません。
 ならば、いてもいなくても同じか?
 そう考える人もいるでしょうが、会えずともいてくれるだけで有り難いという人もいるでしょう。
 なんでこんなことを云うかというと、「野佛」とはそういう存在ではないかと。そこにいてくれるだけで有り難い。

 それは何も出来ないとか、何もしないというのではない。
 考え見て下さい。この戦争、どうすればいいと思います? 
 精神のスペシャリストとして、争う気持ちを無くさせればいい?
 でも、それだけならロボトミー手術のようなことになりそう。他者が強制すればそうなりかねないと思います。やはり、本人が戦争はいけない、憎んではいけないと気づくしかない。

 といって、放置しておけばいいのかというと、それも違うでしょう。
 もしかしたら、「見守る」というのがそこで出てくるのかも知れません。
 ちなみに、「見守る」と「傍観」はどう違うのか? 一つ云えることは時間が違う。長時間の「傍観」というのはありません。短期的には「傍観」がラクですが、長時間になると苦痛です。何かした方がマシです。何も出来なければ、その場を立ち去ると思います。
「見守る」ことの凄さは、時間が経つと際立ってくる。
「野佛の笑みに たんぽぽ すみれ咲く」というのは、「野佛」が「たんぽぽ」や「すみれ」と同じ空気になるまで、そこでずっと「見守ってくれた」ということだと思います。
 何を生半可な宗教の話をするんだと思われたことでしょうが、わたしはこの句をそのように受け止めました。この句には、「有り難い」の気持ちの裏付けがあると思います。
 感謝のあるところに不幸はないわけで、この句に幸せな空気が漂うのは、そこもあるかと。


出典 俳誌のサロン 歳時記 黄砂



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