意味を詰め込み過ぎだし、なんでひとくくりにしちゃうんだろう、というお話。

見に来てくれてありがとう。

今回も無駄にタイトルが長いシリーズ。そう、なんでもかんでも、解りやすくするためなのか、それともいろんなことを別々に考えるのが面倒だからなのか一緒くたにされがちじゃない?っていうお話。

そう、昨日恋愛感情が云々って書いた時に思ったんだけど、誰かを好きになるっていうことが恋愛感情だとして、恋愛事って大体、その好きになった人に告白して好きになってほしい、もしくは、好きになってもらう(失敗するとか、振られるも含めて)っていうところまでが1つのまとまりじゃないですか。だけど、好きになる、と、好きになってもらうって、完全に別のことだよね。好きになった、だから好きになってほしいっていうのは、別の考えだと自分は思うわけでして。なんだけど、色恋沙汰というか、恋愛的な好きっていうものを相手に向けたら、恋人になりたいとか、カップルになりたいとか、もうそこまでのことが1セットでくくられちゃうの。この人のことが大好き。だけど、別に相手に好きになってほしいわけではないっていう感情は、存在するし、成立すると思っていて、相手に何かを望むっていうのは、期待するっていうことで、自分にはどうすることも出来ないことで。んー・・・それってさ、そう思わされてる気がしちゃうなって感じているっていう、あくまで個人的な意見というか、感想の話。好きになったら相手にその気持ちを伝えなきゃ、伝えて相手とどうこうってさ、漫画や映画や小説とか、まぁ物語とか、ストーリーとしては必要な物だけど、現実もそうでなきゃいけないみたいな流れっていうか、イメージがあるんだよねっていう感覚。相手を想うで1つ。伝えるっていう行動が1つ。相手からの反応を受け取るで1つ。なんなら、そこまでの葛藤とか悩みとか感情の変化挟んだらもっと細かく分断できるとも自分は思うのだけど。

話変わって食事の話。ご飯を食べるってさ、栄養摂取なんですよね。事象としては。自分が現在の状態を維持するためにエネルギーを体内に入れて消化して取り込んで。なんだけど、みんな当たり前に食事に美味しさとか、楽しみがあることを前提に選ぶじゃないですか。これが食べたいって。これも、ひとくくりにされてるなって思う。自分が思うみんなの共通認識の食事って、娯楽の範疇なんだよね。食を楽しむっていうか。それが、良い悪いっていう話じゃないよ。変な話、エネルギーを体内にっていうだけならそういうものがいっぱいあるわけで。それこそ、めっちゃくちゃ極端に言っちゃえば点滴とか、水分補給とかみたいな美味しさっていうものをガン無視したって生存は可能なわけで。お菓子を食べるのは食事じゃないっていうのは正しくもありそうで、間違ってもいるような気がして。お菓子っていうものの定義がどこまでなのかによると思うんだけど、それが3大栄養素とか、必要ミネラルが入ってて、過剰摂取にならないならそれだって食事になり得るんですよね。一般的に言われるお菓子が栄養素としてはすっかすかで味と脳への喜びというか幸せにつなげる何かで埋め尽くされてるっていうのがあるから、お菓子ばっかり食べてちゃダメだって言うのがみんなの中にあるわけで。あ、これはあくまで自分の考えだから本当各方面の生産者さんとかには大変申し訳ないんだけど、よく子供に野菜とか好き嫌いしないで食べなさいっていうじゃないですか。あれ、理由の説明しないで子供に食べさせるから子供は嫌いをそのままに大人になっちゃうと思ってて。正直な話さ、野菜なんて食べなくたって大丈夫じゃないですか。いや、野菜に限った話ではなくて、これを食べなきゃ生きていけないっていうことは、まずないわけで。この現代社会においてはね。何から欲しい栄養素を摂取するかなんて自由じゃないですか。じゃあ、なんで嫌いなものを無理矢理食べなきゃいけないんだろうって思う。んー・・・ああ。自分が思ったこととして、給食とかって、みんなが同じものを食べ・・・「食べさせられる」わけじゃないですか。言い方よ。悪印象な書き方してるなぁwいや、別に批判したいわけではなくて、選択の余地なくそれを食べなきゃいけない状況下にあるっていうのは事実として間違ってないと思う。今はもうそんなことはなくなったけど、全部食べきるまで休み時間もなし、放課後まで残されるなんてことも事実としてあったわけでして。ナンセンスだよねぇ・・・。自分としては無意味というか、人の人生を無駄に苦痛で縛ってるだけだと思う。大人になって困るとか、そんなことは今の社会において、ないと思う。選ぶことが出来るんだもの。好き嫌いするな、はその人の個人的感覚や味覚、嗅覚を否定して押し付けてるっていうことだよねって思う。うがった見方かもしれないけど。これもさ、みんな仲良くと同じものを感じる。ひとまとめで、同じ方向向かせてさ。同じもの食べさせて。よくある、同じ釜の飯を食ったとか、同じテーブルを囲んで、みたいなさ、あれだって感情論の話で、何を食べたかってことも大事なのかもしれないけど、どんな状況下で誰と食べたかの方がよっぽど重要じゃないかって自分は思うよ。これはあれだな、そろそろ本格的に本気で集団心理とか、そういうことの勉強をするべきなのかもしれない。個人が勝手に知識や理由と情報をちゃんと持ってないまま思ったことを書いてるからさ、それはよくないのかな、とも思ったりはする。経験からくる感想ではあるのだけどね。

コンテンツのジャンルや種類もそう。これはあれだな、最近書いた自分が思ってる表現で表せないものを、共通認識の為に文字や言葉で表すと一緒にされちゃうっていうのと同じことで、例えばVtuberっていうコンテンツは、そういう人たちが配信活動すること。が、共通認識のベースにあると思うんだけど、内容に踏み込んだらそれこそ千差万別じゃないですか。自分は分けて考えたいなって思ってて。なんだろうな、こういうのって先行されたイメージとか情報の大きな部分が先に大多数に入っていくから、知ろうとしない人や興味ない人には本質が届かないまま、湾曲された情報が本物として届いてしまうんですよね。そうじゃないことが、本当になってしまう。その人にとって。ちゃんと分解して、この人はこういう経歴やこういう想いでこういう活動や投稿をしていてっていう噛み砕いて咀嚼して説明すれば無駄に敵視とか攻撃されるようなことも減ると思うんですけどね。まぁ、そもそものVtuber文化というか、それをちゃんと認識してたり、その文化内にいる人たちですら、その中身や本質というか、伝えたい、届けたい部分やその人の気持ちを汲み取ろうとか、考えて受け取る、享受しようっていうところまで考えてる人なんてほとんどいないんだろうから、その外側には届くわけはないよなぁとも思うのだけど。これも前に書いたかもなんだけど、そういうことまで考えてる自分は偉い、すごいみたいなことは全く思ってないので本当、勘違い野郎だとか思わないで欲しい。自分は、あくまで個人的に好きで、楽しいからそこまで奥の方というか、深いところを知りたいっていうことそのものに娯楽を感じているからやってるだけなので。言ってしまえば一般的なものの見方と比べて異質で、変態的なわけで。その辺は自覚ありますので。

日本語ってさ、ほかの言語に比べて、1単語や文字に対する意味とか情報が多いってよく聞くんだけど、しかも組み合わせや読み方とかで更に複雑に絡み合っているっていうね。だからこそ、なんだけど、含まれてる情報はさ、もっと分解して噛み砕いてわかりやすくすることを自分で心がけないといけないなってつくづく思うんですよ。理解力が足りないな、とか、これはどういう意味なんだろうとか、この人は何を言いたくて、何を伝えたいんだろうとかさ。難しいんだよね、そのままだと。自分は思う、いっぺんにそんなたくさんの情報量を計算したり、理解して吸収してそれに対しての自分の考えを返してっていうところまで1連の流れで出来ないって。最初にその塊を飲み下して消化できる大きさにして、それを飲み込んで消化して取り込んで、やっとそこで初めてそれに対して自分がどうなの?ってできる、と思う。スペックがねー・・・低いんですよ。自分自身の。処理速度も、解像度高めの画像や映像を表示するのも、大変なの。ハイスペックなコンピューターのように高速処理と高速表示はできないわけで。最近本当、若い時や子供の頃にもっといろんなことに頭を使って知識を欲しがってそういう能力を高めておきたかったなって心から思う。まだ、間に合うだろうか。自分で自分を諦めなければ、学ぶことはいくらでもできる筈なのでね、諦めないでいろんなことに思考を巡らせて頭を回していこうと思います。思考するって、娯楽だと自分は思うから。みんなも、自分の心から楽しいと思える娯楽と共に、今日一日が心穏やかに過ごすことが出来ますように。

では、今回はこの辺りで。読んでくれたことに感謝を。それでは、また。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?