倫理観を無視した雑談をしよう、というお話。

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今回は、常識的とか、普通はとか、そういったものを除外して考える、だけど実際は死ぬほどどうでもいい話をつらつらとしていくお話。

そう、最近今までこうだと思っていたこと、に対して本当にそうか?をぶつけることが楽しくて仕方ない自分は、どうでもいいことや、ろくでもないことに思考を割いているわけでして。まぁ、それが楽しいからやってるんですけど、こういうのって話す相手や聴いてくれるであろう人がいないんですよね。いたとしても、そんな話をして相手を困惑させたり、そこに時間を使わせるのも申し訳ないしなぁっていう。なので、ここで書いて発散するよっていう。

いきなりですが、ものすっっっっごく可愛い女の子がめっちゃくちゃ哲学的な話をしていたとして、それを本気で受け取る人ってどれくらいいるでしょうか。付随して、もう知名度とか学歴とか世間的な評価がめっちゃくちゃ高くて年齢も重ねてて良いお年と言われる方が同じ話をしたとして、どちらの方が中身を正確に受け取ってもらえるでしょうか。おそらく後者ではないか、と考えるとして、そもそも、同じ話をしているとしても話している人間が違うのなら中身は同じものではないのだから比較するには違うのではないかっていう考え方もある。口調や声質、性別に、文脈や伝え方、おそらくどうやったって同じにはならないとするならば、それは同じことを話していることにはならないのではないか。んー・・・もうそうなったらどんなことも共通認識できても似て非なるもので同じものは存在しないということになる。いや、全く同じものなんて存在しないと自分は思っているのだけれど。例えば、先の二人が同じ本を読んだ感想を話すとして、共通見解や認識だとしても、それを対談で話しているとして、その対談を見ている側はきっと同じようには見ないだろうし、そもそもの見ている場所や引っ掛かる部分が違うし、ズレが生じているわけで、じゃあ同じ場所に注目して見たらそこに対しての印象は同じなのかと言えば、絶対に一致しないだろうしっていう、現象、事象とそれをその外側から見てとか広げていったときにズレしか生じないっていう。そのズレを確認したり、違いを確かめていくのが面白いんだけど、自分が見ているそれと他者が見ているそれは同じものを見ているようで違うものを見ているからもうズレているがズレているんですよ。よくわかんないですねー、雑談なんで意味なんてないですよ。ただ、ひたすらに重なる部分と重ならない部分が広がっていくというだけのこと。

可愛い、可愛い女の子が、めっちゃくちゃ可愛い声で哲学的な歌詞の楽曲を可愛い声で歌った時に、それを聴いて何を思うか、受け取るかって人それぞれじゃないですか。楽曲に比重を置くか、歌声に比重を置くか、はたまたその歌っている人の人格や考え方を意識して聴くのか。その楽曲の意味の解釈をその人なりに表現しようとしたときに、その人にはその人の声でしか表現できないじゃないですか。例えば、本当はこんな声や音で表現したいってなってもそれは不可能なことで。んー・・・ボーカロイドとか、他社の音声を使って表現するは、また違うっていう気が自分はするのだけどね。それもまた、その人の声なんだろうか。当人の声ではないのだけど、表したい、その人が伝えたい表現ならその人の声なのでしょうか。難しいところで。極端な例だけども、ヘビーメタルとか、もうギターもドラムもぐっちゃぐちゃに激しいような楽曲に合う歌声って力強い濁点交じりで張り上げるような男性の声が正解にされがちじゃないですか。というか、そういうものの方が評価されたり、普及されて広がりやすいというか。もし、すっごいロリロリな可愛い声の子がそういう楽曲が好きで好きでたまらなくて自分が歌いたいって思って歌った時に、その楽曲や歌詞への想いと発生された声は強さや意志を保持してるんだけど、作品として出されたときに評価されづらいと思うんですよね。それが好きな人も必ずいるんだけど、それはそこにその声質のそれがあることが好きな人で、本来のその歌った人の表現したい伝えたいが伝わっている、届いているかって言うと話は変わってくると思いません?いや、その声であることを誇りにそれを表現として伝えています、ならそれでいいし、それが正解なんだけど、その人がその自分の歌声に疑問とか悔しさとかを持ってて本当は違うんだって思ってたら話は違うわけで。自分はその葛藤すら表現の一部だと思うからそれはそれで良しなんて考えたりするんだけど、そういう差し出された作品と受取り手の印象って、絶対に何かしらのズレがあるよねっていう。流行ってから聴いたりした楽曲とかも大衆に流行ったっていうイメージや認識が先に入った状態で聴くわけで。そうなると先入観とかも入ってくるわけで。歌ってみた動画とか、CDやライブとか、音と映像と視覚とその人とーとか、今度は音楽以外のところも認識部分として考えなきゃいけなくなってきて、広げ始めたらきりがないし、一旦ここまでを整理して享受しようみたいにしないと、思考や感情が流れていっちゃうんだよね、自分の場合は。集中が持続できないの。あっちもこっちもっていうのも難しいし、深堀すると疲弊するし、思考は鈍るし、広げていったら脳の処理が追い付かなくなっていく。どんどんどんどん。整理して、置き場を変えて、もう一回ね?ってしないと向き合えないんだよね。1つの作品に対してそれをやっていると次から次へと新しいものや別のものが投げつけられてきて、それを邪魔するの。そして、時代に取り残されて、老害、頭が固いっていう風にされていく。いや、そうなったからって新しいものを拒んでるとか、受け付けないっていうわけではないんだけど、物事の回転速度が速すぎて、選んだり弾いたりってしないと処理できないんですよ。数が、多すぎる。溢れすぎてるんだよなぁ、いろんなものや、ことが。

倫理観無視って書いたから極端な話をしよう。最低な具体例だけど。んー・・・難しいな。どうやって書こうか。例えば、まぁ年齢はともかく、おじいさんやおばあさんと、少年、少女としましょうか。この年齢差で、恋愛関係は成立するかっていう話。それが純粋かどうかっていうところからなんだけど、恋愛感情って綺麗なものだけじゃないと自分は思うんだけど、じゃあそういったお年寄りってされている人たちが少年や少女に性的欲求持ってたら犯罪者的な扱いや侮蔑的な視線や言葉を投げつけられるじゃないですか。一般論としては。その関係に、お互いが納得していて、外部に何かしらの悪影響がないってなっても、やっぱりお年寄りは叩かれちゃうんですよね。おそらく。絶対ではないのかもしれないけれど。少年、少女が無垢で知識やそういった認識がないのにつけ込んでいるだとかなんとかっていう風になっちゃうんだろうな。考え方的には。でもさ、子供がさ、本当に子供かっていう話で、経験や知識がなくても賢い、聡い子はいて、大人なんかよりよっぽど、んー・・・本質というか、言葉にするのが難しいんだけど純粋というか真っすぐというかね、そういった感情で向き合って関係があったとして、生物学的な種を残すとか、本能的なっていう部分とかは無意識的に持ち合わせてるとして、それを外野がどうこう言うのはお門違いじゃない?っていうわけで。別に推奨してるわけでも、それを良しとしてるわけでもないですよ、先に言いますけど。ただ、単純にその関係と2人の感情を俯瞰で見た時に外野にはそれに何かを挟み込む余地ってないんじゃないかなっていうだけで。なんかね、ただ気持ち悪いだの犯罪だだのってくくられちゃうのは違うのかなっていうだけ。親がいて、人生があって、そういう社会的、人間的物の中でルールとか法律みたいなのがあるから人間的なものの見方でのことだよねっていう。

だってさ、性的趣向はまぁ人それぞれとして、なんだけどさ、そういった幼女趣味というか、ロリータ好きって呼ばれるものって、少なくない一定数がエンタメとしても需要をなしているわけじゃないですか。それは容認されるんだねって思いません?少年、少女には見せないよとか、制限がっていうけど、言ってしまえばその年齢層というかどこからがその範囲っていうのだって曖昧でさ、よく言う基準となる18歳ってどうなの?って思いません?今って日本で言うなら18歳ってもう成人じゃないですか、でも正直子供なわけで。これは個人的主観も混ざってますけど。身体が成熟しているいないだって個人差があるし、その頃の年齢層ってそういった性的部分を自身に体感しやすいというか、意識する時期なわけで。グレーな販売物だとか、実際のところなんて本当の年齢とかわからないわけで。嘘ついて実年齢ごまかしてうんぬんかんぬんなんてことも事実として起こってるわけで。良し悪しの話はしてないよ。そこにはさ、本能的な部分とかだってあるわけじゃないですか。種を残したいなら若い女の子の方がいいって判断する本能だってあるだろうし。快楽的な欲求とか欲望だったら話は違うでしょうか。そういう欲求がそういった年齢に向いてしまってるが罪になってて、趣味嗜好が許される範囲内なら大丈夫っていうその許される範囲っていうのが一般的な倫理に沿った年齢と関係で。そもそも、快楽目的でない関係なら年齢は関係ないって考えちゃったらいろんなことが破綻するし、感情論とかになっちゃうんですけどね。あ、この書き方だと男性が少女方向にっていう限定っぽいな。言い方悪いけど、女性が少年にだったらそれこそ生殖機能が機能してないなら快楽欲求なわけで。もちろんそういったものも忌避されるし、犯罪的にみられるんだけど、どうやっても男性が少女にっていう方が悪辣というか、めためたに叩かれて貶されるよねっていう。

話が少し横になるんだけど、2次元のそういった表現も規制だったり論争がいっぱいあるじゃないですか。そんな中で、この話に出てくるキャラクターは成人していますってどう見たって成人してない見た目の子が登場する作品も、グレーながらに、いや、グレーではないよね。普通に販売されてて、需要はあるわけで。表現の規制っていうか、抜け道っていうかさ、わざわざそう書いているって、違うよって強調してるようなものじゃない?って自分は思うのだけど、みなまで言うなってことで。だってさ、基本的に誰だってえっちなこと好きじゃないですか。本能的に。でも、それを出すことは恥ずかしいとか、良くないことだってされてるから隠すわけで。おおっぴらにしなよっていうことではなくて、制限したり規制をかけるから反発が出るわけで。制限かけなきゃかけないで大変なのは百も承知なんだけど、んー・・・本当難しいよね。どこまでいっても、人間社会的な良い、悪いっていう判断をしなきゃいけないっていう。自分はそういう部分って、もっと若いうちから考えておきたかったし、そういった勉強を教えてもらいたかったなって思う。避けて通ることじゃないと思うよ、もっとちゃんと教えて、考えてもらわなきゃいけないことだと思う。

これはダメなことですっていう時にさ、なんでダメなのかを説明できますか?っていう疑問が自分にはあって。その中で特に思い浮かぶのが人を傷つけちゃいけませんっていうやつ。いわゆる傷害罪にあたるやつですね。自分は、個人的に人に不快とか、嫌な反応されることに不快を覚えるし嫌だなって思うからしたくない、なんだけど、これはあくまで自分の考えや経験からくる感想なわけで。幼いころから格闘技とかそういった戦わなきゃいけないものを知って、学んでってスポーツなら歓迎もされるし、応援も、尊敬も成立するじゃないですか。あれだって、人を傷つける行為なわけで。ルールがあって、その中ならいいって言うのは、自分としては納得のいく説明じゃないなって思う。お互いが容認してて、良いって言うんだからいいんだよって強引だと思いません?しかもさ、勝敗とかルール無用でそういったスポーツ外の、違法?ってなるのかな。みたいなのでお金が飛び交うのは裁かれるのに、格闘技のスポーツ観戦にお金が払われて、勝敗にも結果でお金が出るじゃないですか。ああいうのも、なんだろうな、素直に納得できないというか。もう決まっててこういうものだから、で片付けられちゃうじゃないですか。そういったルールと形でもうみんなが共通認識として持ってる以上は。あくまで疑問っていうだけですよ、否定とか批判とか、そういったスポーツが嫌いとか、自分は見ないよっていうわけではないですし。ただ、そこにあるからそれが当たり前であるって考えるのは違う気がするっていうだけで。時と場合と状況とルールとなんて考えだしたらきりがないとも思うんですよね。自己防衛での結果とか、誰かを守るために人に危害を加えるとか、情状酌量の余地があるとかさ、裁判とかだって、どーーーーーんなに勉強して、学んで精神的に中立でっていったって、人間が人間を裁いてるし、先に手を出した方、危害を加えた方はほぼ確実に何かしらの刑はつくじゃないですか。無罪放免、とはいかないわけで。行われるのは事実の確認と結果とそれに基づいた誰かの判断で。極端な話してるとは思いますよ、実際。自分が法律やそういった世界に詳しいかって言ったら全然からっきしですし。なんだけどね、自分は子供というか、幼い時にもっといろんなことを知っておきたかったって思う。今現在、知っておくべきとか、知っておきたかったことが圧倒的に多すぎると思うから。教えてくれなさすぎなんだよ。大人たちが、平気で子供に隠すから。大事なことを。もっと教えなきゃいけないことがいっぱいあると思う。不都合なことを隠して、綺麗に綺麗にさ、みんな仲良くを教えるわけで。だから、自分で何とかできない人が増えるわけで。知りたいと思った子供にはさ、ちゃんと教えてあげるべきだと思うよ。お前にはまだ早いとか、子供は知らなくていいとかさ。そんなの大人の怠慢じゃない?逃げじゃないかい、って思う。知って受け止めきれないことはあるかもしれないけど、知ろうとしたっていうことは、もうそれを知っていい精神なんじゃないかって思う。知ろうとしている子に教えないのはやっぱりどうかと思うよ。今の自分は、そう思う。こんな大人になっちまったから、言えることでもあると思う。

最近、本気で思う。人間として、人間社会で生きていくのって本当に苦しくて、大変なことだって。決められたルールが、法律が、制限が、んー・・・否定や批判っていうより、意味や機能をさ、ちゃんと知らないまま大人にされちゃうんだなって。気が付いた人とか、成長を望む人がさ、つま弾かれちゃうんだよね。異端だとか、おかしいみたいな。あぁ、醜いアヒルの子って近しい話だと思うわ。あれは、そういった子が最後に報われるんだけど、現実はそうはいかないよなって思う。悲しいけどね、そう上手くはいかないんだわ。疑問を持って考えて行動する人に優しくないんだよね。社会とか、世界は。存在して、自分を保つだけでもこーーーーんなに大変なのに。やれやれ。みなさんはこんなどうでもいいことは考えない方がいいですよ、きっと。自分はこれを楽しいとか、娯楽とかの一種だと思うからやめないけどw

最後に!これ、本当声を大にして言っておきますね。書いてきたことに対して、推奨とか、こうだったらいいのにっていう思想や思考で好意的に捉えているわけじゃないっていうことだけは本当に心から言っておきたい。ダメなものはダメだっていう認識とか、自分なりの正義や道徳なんかはありますので。人の気持ちや感情を無視した行動や、行為は自分は好きじゃないし、嫌いです。理由に何かしらの余地があるなら考えるけど。ただ、そういったもののルールの中で、決まりだからしょうがないとか、もうそういったものだから、で終わらせてしまうのはいかがなものかっていうだけの話。書いた中身がなんか読んでて気分の良くない中身だったことは心から謝ります、申し訳ない。でも、本能的な性的欲求とか、闘争本能的なものってさ、考える余地はあると思う。答えや正解のないものだからさ。世界で見れば、価値観とか思想までひっくるめてもっともっと討論できることだと思う。まぁ、なんなら自分が今回書いた事なんかふざけんな、何言ってんだ!っていう攻撃されても全然文句言えないような考えでもあるっていう意識はあるんですけど。ただ、全部肯定的にこうだっていうんじゃないよっていうのはちゃんと言っておかないとね。誤解されたくはないので。

はい、倫理観無視っていうところで書いたものの、よくわかんない記事になっちゃいましたね、まぁいつものことですか。考えて、考えて、答えの出ないものに向き合うのって楽しいなって思う。そこには、誰かの良しと誰かの悪しがあって。もしかしたら、そのどちらでもないこともあって。思考を巡らせるって、娯楽なのだと改めて思う。人の意見や言葉や考えを聞いたり、よんだりするのもまた、自分にとっては大きな娯楽なのでした。みんなも自分が心から楽しいと思える、自分で自分を満たすことが出来るような娯楽と共に今日1日が心穏やかに過ごすことが出来ますように。

では今回はこの辺りで。読んでくれたことに感謝を。それでは、また。

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