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ガブリエル・夏 24 「スローモーション」

ビュンヘン中央駅に着いた時には、12時を少し過ぎていた。よくそんなに細部まで手間をかけて、というほど装飾された針が、配置されたローマ数字かその間を指すタイプの、アンティークの大きな柱時計が、真ん中に仁王立ちしている。列車の中の静けさとは反対に、大勢の人の話す声や歩く音が広いホールに反響して、一番ベースの音の層を作っている。ホーム変更のアナウンスや、近くを通り過ぎる人の会話が、時折思いついたばかりの短い旋律のように聞こえてくる。あの大きな時計が、全体の指揮か、メトロノームの役割を担っているようにも見えてくる。

駅は大きくて、土産物店やカフェが多く、フードコートとスーパーマーケットまであった。レイは、バーガーキングで、成長期の若者らしく、色々挟まってて分厚いハンバーガーのセットを選んで買った。ポテトがぷんぷん匂う。まみもは、それほど食べたかったわけでもないが、車のハンドル程の大きさのプレッツェルが見えたので、それを買った。現金を使って、レイと目を合わせた。レイが賢そうな顔でにっこり笑う。自分のしていることの意味をわかってもらえているという幸福感は、すごい。これ以上何もいらないというのは、こういう気持ちなのかと思うと、涙がにじみ出てきた。プレッツェルは、ハート型というより、だらしなく笑っている妖怪の顔のように見えて、ちょっと気持ち悪い。まみもの知っているビュンヘンと言えば、オクトーバーフェスト。オクトーバーフェストと言えば、10月の、ビールを飲む祭りという程度の理解。胸のところが大きく開いてる半袖のブラウスに、ベストに、広がったスカートの女性と、吊の半ズボン男性が、大勢で、大きすぎて重そうなジョッキのビールをいくつも持って、もう片方の手にソーセージやプレッツェルを持って楽しそうにしている広告の写真が思い浮かぶ。まみもはよく昼からビールやワインを飲むが、この時は、プレッツェルのお供にビールが欲しいと思わなかった。胸がいっぱいだし、引率担当として、冴えない頭をさらに鈍くしてる場合でもなかった。

次の列車の出るホームまで来ると、さっきまでの喧騒は、よそのうちのもののようになった。ベンチに座る。転校したての教室の休み時間は、だいたいこういう感じだった。結婚してからの暮らしも、なんとなくこれに近い。でも今は、もぐもぐよく食べるレイが隣りにいる。それについて、どんな感想を持てばいいかわからない。すごく満たされている感じがあるけれど、恒久的なものではないとわかっている。レイは、いるべきところに戻っていく。

列車に持って入ると、匂いが強くて、周りの人が自分のことに集中できなくなっちゃうから、こっちから先に食べて、というまみものリクエストに応じて、レイは、ポテトから食べている。つまんで、持ち上げて、口に入れる。2回ぐらいもぐもぐしていると、もう次のポテトが運ばれてきて、開いた口に放り込まれる。多分口の中で、さっきのポテトの上に、新しいのが乗っかってる。もぐもぐ。もう次の組のポテトが、口の前で待っている。

「慌てなくていいよ。噛んで、飲み込んでから、次のね。
 私ね、昔、上海の韓国料理屋で、ダメだ、もう死ぬと思ったことがあるよ。麺をズルズル口に入れていったら、噛みきれなくて、喉を麺が塞いじゃって、息ができなくなったの。情けない死に方だと、それは嫌だったけど、でもやり残したことはないな、さらば、と、苦しみながら思った。多分短い時間なんだけど、周りの人がスローモーションみたいに、ゆっくり動いてた。
ガブくん今大丈夫? 周りの全部がスローになってない?」

高速ポテト取り込み工場が、稼働スピードを緩める。どんどん緩める。
「ぶぉくぅがぁ スゥルオーぅうにぃ んぬあっちやったぃよー。(ぼくが、スローに、なっちゃったよ。)」

スロー再生中のレイは、色んな表情をしておもしろい。高性能カメラで撮影した、画面の中の映像のように見えてきた。ケチャップが、ゆっくり飛び散る。楽しんでいると、列車が入ってきた。ホームに吹き付ける風が、また別世界へ連れて行ってくれるようだ。この旅が、本当に起きていることなのかどうかも、もうよくわからなくなってきた。本当は、あの時の、上海の韓国冷麺ですでに死んでいて、これは全部夢なのかも。柚も研も、オランダもドイツも、この妖怪のプレッツェルも、レイも……。


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