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ガブリエル・夏 4 「カタツムリ」

「え? レイくん? あぁそう? いや〜、ああ、こんにちは。んん? レイくん1人だけ? だけどノーパンなの?」

「はい。」

 章の眼前には、まだ理解の追いつかない光景がある。他の4人は、章の混乱にノーパンも含まれているのがおもしろくて、笑っている。

 章は、柚や研と違って、遠慮するとか様子を見るとか、待つということをしない。いつも。思いついたタイミングが、発言のタイミングだ。相手や周りがどうなっているかをまず知ろうという考えはない。
 食事の間も、章の頭に浮かぶ疑問は、すぐに口から出てみんなの食卓の上に漂う。「どうやって来たの?」、「なんでうちに来たの?」、「いつ帰るの?」、「お父さんとお母さんにちゃんと断ってきてるの?」、「まみもには親御さんから連絡が来てたの?」、「1人で大丈夫なの?」、「なんでノーパンになっちゃったの?」……。
 レイは、章がとりあえず満足するような答えを返すときもあったが、うーん、とか、えへへ、とか言って誤魔化すこともあった。そういう時には柚か研が、別の話を始めたりして、章が追及するのをそっとブロックしているようだった。

 食事の後、まみもは買い物に行く用があった。子供たちを誘ったが、柚は編み物がしたいと言い、研は部屋でNetflixでコメディの続きが見たいと言った。毎日コツコツ見ておかないとリズムが崩れるそうだ。まみもの子供たちは超インドア派で、特に研を外に連れ出すのは簡単ではない。レイは、「行く行くー。」と言ってくっついてきた。
 買い物袋、鍵、携帯、あとマスク、ハンカチ、ティッシュ、消毒用のジェルはどうしようか、ああ小銭入れもいるか、帽子はどうしよう、と、出かけるのにモタモタする。レイは手ぶらだ。身軽で潔い。まみもはふと、自分はレイのように生きてみたいと思っているのだろうかと考えた。だから憧れるのか。できるだろうか、レイのように。

「1番、すぐ近くのパン屋の横にある小さいスーパー
 2番、ちょっとだけ遠くのモールにある少し立派なスーパー、
 3番、旧市街にある、珍しくて高いもの中心に売ってるスーパー、
 どれに行きたい?」
3つ全部の方向へとりあえず歩き始めながら、まみもが訊いた。

「ん〜。あの山のぺってんがいい。」

 レイが指さしたのは、Kapellenberg という小山で、てっぺんに教会がある。Kapellen(チャペルの)、berg(山)。山といっても標高は292mしかない。家から歩いても、20分ほどで頂上まで行ける。見つけたばかりの朝ランコースの1つなので、道順もわかる。

「じゃあ、あの山のぺってんへ行って、帰りに木の実を拾って、食べられる草とバッタかコオロギかなんかも採って、今日の晩ご飯にしようか。」
「山にイノシシもいるかも。シカも。」
「ガブくんが捕まえて捌くの?」
「捕まえて砂漠??」
「ううん、『捌く』だよ。お命ちょうだいしますって動物に死んでもらって、血を抜いて皮を剥いで、大きいナイフでバラバラにして、肉屋さんで売ってるような大きさや形にすることだよ。」
「いや、僕はそれはしなーい。連れて帰ってきて、一緒にスーパーに行って、好きなものを買ってあげて、みんなの夕飯の時間に一緒にご馳走してあげる。夜は庭で寝かせて、明日また山まで連れて行ってあげよう。夏だからイノシシもホリデーがあった方がいいでしょう? 何か特別なことがないとね。」

車も人もほとんど通らない住宅街の坂道。喋りながら車道をぷらぷら横切るレイに、まみもがいきなりタックルした。

「なに?」
「しーっ。止まって。 あれ。」

まみもの指の先には、通りの向こう側の民家の庭の太いガサガサした木があり、焦げ茶色の小さなリスが2匹、木の表面を縦横無尽に走り回っている。追いかけっこをしているようでもあり、縄張りか餌争い真っ最中のようにも見える。

レイはまみもにタックルされた体勢のまま、眉毛をあげて口を開けて、早送りのようなリスを見ている。
「Ninja みたいね。」
まみもがレイを解放しながら言った。
リスが庭の奥の方へ入って見えなくなってしまってから、2人はまた歩き出した。

「イノシシにもホリデー、すごくいいね。喜ぶかなあ。でもパーティはダメだよ。22時以降はうるさくしちゃいけないの。ドイツの法律か条例かなんかで決まってるんだって。イノシシたち、コオロギも、静かにできるかなあ。シカとバッタは多分大丈夫だね。泣くの聞いたことないもん。」

 舗装された道路のエリアは終わり、土ベースの山道に入った。空は、木々の上の方の葉っぱの隙間から少し見えるだけになり、空気はひんやりして、さっきまでの住宅街とは別の世界のよう。2人を囲む周りの生き物の種類も変わった。ほとんどは見えないけど、多分変わった。鳥の声と木の葉がカサカサいう音だけが基本のBGMで、一歩一歩が下の方でシャリシャリいう。坂を登ってきて荒くなった2人の息の音も、少し聞こえる。

「ガブくんのお母さんに連絡しなきゃ。電話してもいいかなあ。」
「出ないよ。忙しいから。」
「じゃあ、WhatsAPPでメッセージしておこうか。」
「WhatAPPするなら……、」

レイは屈んで道端の白っぽいキノコを取った。
「柚ちゃんちに夏休みの間ずっといますって書いてくれる? はい、これ。夕飯のおかず。」
キノコをまみもに渡した。
「ずっといたいの?」
レイは答えない。
「……柚のお父さん、おならくさいよ。」

自分から出たくさいという言葉に触発されて、まみもは渡されたキノコの匂いを嗅いだ。
「これはくさくない。森のいい匂い。美味しいおかずになりそう。」

「おならがくさいのやだな。どうしようかなー。」
レイは黄色い小さなカタツムリを、葉っぱに乗せてまみもに見せた。
「見て。かわいいよ。フランスなら、これもおかずにされちゃう。」
カタツムリには、うすい水色の縞模様が入っていた。ツノをピコピコさせている。
「ほんと。かわいい。」

「まみもちゃん。」
レイが歩くのをやめて言った。カタツムリではなく、まみもの方を見ている。2、3歩前でまみもも止まり、振り返って言った。
「はい、まみもです。なあに?」

「まみもちゃんのおならもくさい?」


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