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ガブリエル・夏 34 「モミの木の林」

2人は、さっきと同じリフトに乗っている。レイの右脚はまみもの左脚の上だ。席が自由の教室で、それでもだいたいいつも誰がどこに座るか決まってくるように、レイはまみもの左側で、右脚をまみもに乗せる。それが定番になりつつある。

さっき、ゲレンデの端から端までを長い斜滑降で横切りながら、なるべくたくさん風を浴びた。フォン・デル・パピールから、このアルプスの山の空気の中へ水分がとんで出ていくように。できればその、とんで出ていった水分の一粒一粒が、このあとどうなるのか追跡してみたいような気もしたけれど、地球は回り続けていて、生きる時間は限られている。いちいち立ち止まって、確認したいことを全部確認するわけにはいかない。
ゲレンデの隅っこに、もみの木の群生している、ちょっと低くなっているところがあった。その中に、雪の被っていない、土の出ているエリアをレイが見つけた。

「まみもちゃん、ちょっとここ、行こう。」

スキー板を外して、もみの木林に歩いて入っていく。固いブーツは履いたままなので、超合金の人形のような、ガタンガタンした歩き方になる。柔らかい地面と、ミスマッチな感じ。レイは、一本の木を見て、上の方を見て、下の方を見て、「う〜〜〜ん」と言って、また進む。地面の様子を見ながら歩いて、また木を見て、上の方を見て、木の周りを回って、付近の様子を見て、「ふむ」と言う。レイが何をしてるのか、まみもにはさっぱりわからない。わからないが、何かしているレイを見るのはわくわくする。何を見て、何を分析しているんだろう。
目的はわからないが、多分これをしてるんだろうと予想のつくこともしている。太陽の位置を確認する。木に生えている苔の繁殖具合を確かめる。幹にできてる裂け目の中がどうなってるか観察する。
とても静かで、レイとまみもの動く音だけがする。木々が、吸ったり吐いたり、根や幹や枝や葉を少しずつ成長させる音が聞こえてきそう。まみももこのうちの一本の木になりたいような気がしてくる。何を見られるのか知らないが、レイに検査されたい。それでできれば、「う〜〜〜ん」よりは、「ふむ」と言われたい。でもレイが通り過ぎたあとは、またずっとそこに立っているだけか。行ってしまったなぁと、見えている間はずっとレイを見て、見えなくなったら、寂しいなぁと思いながら、よいしょと栄養と水を根から吸い上げて、枝や葉っぱにくまなく届けようとするのか。太陽が出たら葉っぱで日光パワーをキャッチしようとして、苔が生えたり、虫が住み出したりしたら、あなたたちはいつまでもいてくれる?と思うのかな。

「ここがいいかな。」

そう言ってから、レイは振り返り、まみもにこっちに来いという顔をする。いや。レイの顔は命令しない。指示しない。「おいで」とか「来て」とも少し違う。こっちだよという顔をする、が合ってる。
まみもは、レイのこっちに行く。
レイは近くの倒木に座った。ポケットからしめしめのプレッツェルを出す。小さめにちぎって、その辺にぽいぽいと放る。ぽいぽいぽいぽいして、まみもの口にも1つ入れる。まみもには不意で、一瞬何が起こったかわからない。レイが笑っている。パンが口に入ってるだけかとわかる。レイは、まみもが噛んで飲み込むのを見ている。

「しめしめしてる」

まみもが言うと、レイは眉毛を上げて、おでこに皺を作って、「ね!」と言う。 この顔、前にも何度か見た。まだレイが子供のサイズだったときに。

「このぽいぽい、誰の栄養になるの?」
「ここのみんなの。」
「プレッツェル、結構しょっぱいけど、高血圧とか大丈夫かな。ネズミとか、虫とか、微生物とか、小さいのが食べたら。」
「心配?」

レイは、まみもがどんな顔で今の発言をしたのかと、興味があるようだった。覗き込む。まみもの顔には、わかりやすい表情は出ていない。虫や微生物に高血圧の症状が出るかもしれないと本当に考えているかどうか、見て取れない。

「大丈夫だよ。いらないものは口に入れなかったり、食べても出ていくようになってるから。それにいつもいつも食べてたらなんかおかしくなっちゃうかもしれないけど、毎日たくさん食べるもののうち、少しだけだから。」

まみもはそれを聞いて、本当に大丈夫なんだなという気がしてくる。高血圧だけじゃなくて、何もかも。あらゆることが。

「それならよかった。」

レイは、ぽいぽいの最後のかけらを、ぽいーんと遠くへ投げた。まみもは、しゃがんだ膝の上に腕をのせて、その上に顎をのせていたが、ぽいーんと飛んだ最後のかけらが、どの辺に着地するだろうと、頭を持ち上げて、首を少し伸ばした。

「まみもちゃん。」
「ん?」

ぽいーんの落下を確認して、まみもの首は縮み、頭は腕の上に戻ってくる。顔をレイの方に傾けるので、右の頬骨が腕に着地する。

「言うことがない。用事はなかったけど、呼んじゃった。」



「呼ばれて、飛び出て、ジャジャジャジャン。」

リフトは、5/18を過ぎたところで、ガガガタンと揺れた。揺れた音で、まみもの「呼ばれて、飛び出て」はレイには聞こえなかった。「ジャジャジャジャン」の最後の方だけが聞こえて、レイは、まみもがリフトの揺れる音を真似しているのだと思った。あの時、レイが用事はなかったけど呼んじゃったと言った時、まみもはふふふと笑っただけだったが、用がなくても、好きなだけ呼んで欲しいと思っていた。それで、アラジンのランプの精のように、呼ばれたらいつでもジャーンと飛んで現れたい。用はないよ、と言われたら、そう?じゃあねとランプに帰る。呼ばれなくても、いつもレイの部屋の本棚にいて、ランプに小さな穴を開けて、そこからレイの漫画の背表紙や、レイの机の上に散らばってるものを見て過ごす。呼ばれるのを待ちきれなくなったら、サザエさんの歌のタマみたいに、たまには勝手に蓋を持ち上げて出てきて、用事ある?と訊く。そういう風にできたらいいのになぁと思った。そういう風には、できないだろうなぁと思った。

「まみもちゃん、泣くの?どうしたの?」
「うん。わかんない。オイラのクッキー、食べる?」
「食べる。」


まみもが、両目から涙を溢れさせながらバッグから出した、かつてクッキーだったものは、長旅と匍匐前進などを経て、元々の形も数もほとんどわからないほどに砕けて、不揃いのピースの集合になっていた。ヨーグルトや牛乳と食べる、クランチーなんとかみたいだった。

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