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Q 4. イエス・キリストが神であると聖書の中に書かれているのでしょうか?

A.
聖書の中にイエス・キリストが神である、あるいは神の性質をもった方として書かれている箇所は多数あります。
イエス・キリストを神とするかどうかによって、キリスト教の正統か異端かを判断することができます。
もちろん、イエス・キリストが神であると認める者たちが正統キリスト教です。
「イエス・キリストは神ではない」と主張するエホバの証人は真の神に対して大きな罪を犯していると言えるでしょう。
実際、「イエス・キリストは神である」と書かれている箇所は多くありますが、すべてを扱うことができません。ここでは主な聖句箇所を取り上げます。

1.イエス・キリストは神であると書かれている聖句
①ローマ9章5節
「キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。」

②第一ヨハネ5章20節
「私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」

③テトス2章13節
「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現われを待ち望むように教えています。」
*「新世界訳(エホバの証人の聖書)では、ギリシャ語の「και」を「および」と誤訳することによって、あたかも2人に言及しているかのように訳出している。
しかしここはグランビル・シャープの法則というギリシャ語文法に基づいて訳出しなければならない。
つまり、「神」と「キリスト」という2つの名詞が同じ格で、定冠詞が一つだけしかついていない場合は全く同一人物となるのです。
ですから、「神であり救い主」となるのです。

④ヘブル1章3節
「御子(イエス)は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われである」
*神の本質の完全な現われであるなら、神の性質をもったお方なので神であると言えるのではないでしょうか!

⑤ヘブル1章8節
「御子(イエス)については、こう言われています。『神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は後世の杖。』」

⑥ヨハネ1章1節
「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
*「ことば」とは、ヨハネ1章14節を見るなら、イエスのことであることがわかります。
純粋に読めばだれでもわかるように「ことばは神であった」のです。
しかし、エホバの証人はこの「神」を「神のような者」と考え、英語では「God」を「a god」としました。
もし、そのようにするなら、ヨハネ1章の文脈に出てくる神をすべて「a god」とするべきなのに、そうはせず、1節だけを意図的に変えたのです。
神の言葉である聖書を翻訳する者が絶対にしてはいけないことをしたのです。
これは大きな罪です。
この個所は、「ことばであるイエスは神であった」とはっきりと述べているのです。

⑦ヨハネ20章28節
「トマスはイエスに答えた。『私の主、私の神よ。』」
*復活のイエスに出会ったトマスの信仰告白の場面です。
トマスは決して驚いて、思わず言ってしまった言葉ではありません。
まことに蘇られたイエス様を心から信じて「神よ!」と告白したのです。
この神はギリシャ語本文でも、ο θεος(ホ セオス)と定冠詞がついています。
復活のイエスを真の神として崇めたのです。
続きの20章29節でイエスはトマスを叱責せず、その崇拝を受け入れました。
もし、イエスが神でないなら、トマスは偶像礼拝の罪を犯したことになります。

⑧ヨハネ5章18節
「そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。
イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」
*イエスは神として、当然の行動として歩まれました。

⑨ヨハネ8章58・59節
「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った。」
*「わたしはある」(I AM)は、ギリシャ語本文では、εγω ειμι(エゴー・エイミー)です。
この言葉は旧約聖書の出エジプト3章14節の「わたしはある」という言葉と同じなのです。
そこはイスラエルの神(エホバでもいいですが・・・)のことを指しています。
セプチュアギンタ(70人訳)での訳は同じ言葉が使われています。
つまり、旧約のエホバは新約ではイエスなのです。
なぜ、ユダヤ人たちはイエスに石を投げつけようとしたのでしょうか?
それはイエスご自身が「エゴー・エイミー」という称号を用いて、神であることを公けに宣言したので、死罪に当たると判断したからなのです。

⑩マタイ28章9節
「すると見よ、イエスが『おはよう』と言って彼女たちの前に現われた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。」
*復活のイエスに出会った女たちが、イエスに礼拝をささげた場面です。
この「拝する」はギリシャ語προσκνεω(プロスクネオー)です。
この言葉の元々の意味は、「地面に接吻する」です。
つまり、口が地面に付くほど身を低くすることであり、深く崇めることです。
確かにエホバの証人が言うように「敬意をささげる」という意味もありますが、この場面において単に敬意をささげる程度のものではありません。
復活された真の神として彼女たちは心からの礼拝をささげたと理解できるでしょう。

2.結 論
 聖書にはイエス・キリストが神である事を示す聖句箇所が多数あります。
今回は十か所を挙げました。
一か所でもイエスが神であることを示す聖句があるなら、そう信じるべきではないでしょうか。
なぜなら、聖書は一字一句、神の言葉であるからです(完全逐語霊感)。
 今回は扱いませんでしたが、旧約聖書の神(エホバでもいいです)が、新約聖書ではイエスに適用しているのです。
イエスはまことに神であり、父と子と聖霊の三位一体の神であることを聖書ははっきりと示しています。
それを否定するエホバの証人は、決して、聖書を正しく理解しているとは言えません。
むしろ、神に対する大きな罪を犯していると結論せざるを得ません。

エホバの証人の方々、間違いに気付かれますように!!

最後までお読みいただき感謝いたします。

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