鍵

題:谷崎潤一郎著「鍵・瘋癲老人日記」を読んで

谷崎潤一郎の小説もだいぶ読んできたが、「鍵・瘋癲老人日記」は晩年の評価の高い作品である。以前、読んだことがある。今回もカタカナ語に悩まされ、また仮名漢字文には悩まされて結局頁を捲っただけである。死ぬ五、六年前に書いた老人の性や肉体への執念を知りたかったけれども、良く分からいというより、それほど優れた作品であるとは思われない。ずっと以前読んだ時に感想を書いていたので、そのまま今回の感想としたい。殆ど読んでいないために筋は示さない。ただ、「鍵」は老作家と妻の日記を綴ったものである。老作家が妻に愛人をこしらえさせ、娘もこの不倫を支援する。なお、日記の保管場所を開けることができるのが鍵である。

―――――以下、引用文
カタカナが読むのが面倒で今まで読めなかったのであるが、今回もカタカナは読めなかったのである。仕方なしにカタカナ語のほんの一部と「鍵」の妻の日記がひらがら漢字で書かれていて、その部分だけを読んだ感想文である。従って、本書の一部を読んだだけで自分でもよく分からないままに書いた感想文である。

カタカナ語がなぜ読めないか、たぶん文章を読み理解するとは、ある直接的な脳へと知覚する通路が、書かれた文字を意味として理解する通路が存在するためであろう。かな漢字文の場合、見た瞬間に通路を移動して理解できる訓練が成されているのである。カタカナ語の場合、この通路は見るのではなくて文字を理解するために途方もない長い時間を必要とするに違いない。これは将棋や囲碁の局面の理解と同じである。ゲームの規則を理解していないと、ただ駒や碁石が意味もなく並んでいる。川原に転がっている石のように乱雑に無意味に物質や形象が意味なく転がっているだけとなる。ただ、カタカナ語でも努力すれば、時間をかければ通路は閉ざされていずに読むことができる。読みたければ石に齧りついても読むはずであり、きっとそれほど読みたいのではなくて、ただ何が書かれているか知りたいだけで、読んでもそれほど面白くはなくて結局挫折しているに違いない。

結論から言うと「鍵」は「春琴抄」や「吉野葛」などより劣る作品である。「春琴抄」の引き締まった文体や濃密に底流するエロシチズムや情念の濃度、そして物語としての卓越性、「吉野葛」の母恋や友人の故郷の自然な情景に、人の心の優しさや暖かさが含まれる作品の方が良いし好きである。「鍵」は妻の日記だけを読んでいるが、淫乱さを秘めている貞淑な妻が夫の日記に書かれている示唆に従って、夫の部下と関係を結ぶことになる。それはきっとこの相手の男に恋している娘の陰謀も手助けして実現したのかもしれない。夫はこの妻の淫乱さに嫉妬し欲情し続けて、結局は脳溢血で死ぬ。これは妻の病気持ちの夫を死なせるための策略でもあったらしい。結局これら四者の関係が、夫と妻の日記と言う体裁を取って記述されているために良く分からない、微細に描き切れていない。そして病気になった夫の死ぬまでを書いた妻の後半の日記の大半が無意味に疑心暗鬼と病状のみを描いていて長い。更にこの妻の書いている日記の文章が非常に冷静に分析的で、疑念を抱きながらも論理的で、妻の貞淑さや淫乱さやその葛藤が、夫の死後を除いて作為的な感じがして、その思いが切に伝わってこない。

きっと谷崎は文章の余白を強調していたと記憶している。それは美しい文章として余韻を残すためであるが、今回は余白が多すぎて、こういう小説であったのかと少し記憶に留めて置くことにしたい。なお、「瘋癲老人日記」はすべてカタカナ語のため読んではいないが、颯子という若い女性を嫁に得た老人の話らしい。どういう風に颯子を得てどういう行動を行っていたかは分からない。ただ「鍵」、「瘋癲老人日記」とも性に執着する老人が描かれているはずが、「鍵」では老人の執着も発表当時はインパクトが絶大であっても、現代においては少し古くなって、少し作為性を感じさせて、飽くなき執念として心底願う切実さが妙に削がれて伝わってこない。ただ先ほどの少し述べたが、妻が夫の死後の本心を語る日記の文章はさすがに谷崎と納得させるものがある。「瘋癲老人日記」の老人の執念は読んでいないために、どうにも分かるはずがない。なお、颯子は谷崎の息子の妻なる千萬子をモデルにしたらしい。谷崎と千萬子が交換した手紙は「千萬子との手紙」として出版されていて読んだことがあるが、なるほど若い娘への執着心が執拗に加わっている。

―――――以上、引用文(幾分修正されている)

谷崎の性への執念は良く分からない。というより多種な面を持つ。「千萬子との手紙」や「蓼食う虫」では若い女への教育として現れている。教育とは日常生活、特に日本的な文化についての教育である。一方「春琴抄」や「痴人の愛」での執念は幾分マゾ的な性質を持っている。「少将滋幹の母」では「不浄論」にたどり着く。その一方、母への思慕がとても強い。こうした谷崎の性に関する心理については、谷崎純一論にて論じたい。と言っても若干のマゾ的な性格と肉体への執念だけにする予定である。予定であってまだ書いていずにどう展開されるかはまだ分からない。論旨の幹はベルグソン哲学の応援を得て、持続とエランヴィタルの概念を利用する、これもまだ予定である。

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。