見出し画像

題:横溝正史著 「病院坂の首括りの家」を読んで

横溝正史の映画はテレビなどでよく見ている。どろどろした人間関係が好きである。でも、たぶん、彼の著書は読んでいない。あまり文章に張りがなくて読めないと恐れていためである。読めない作家は結構いる。ただ、横溝正史はぜひ一度は読んでみたい。もし良ければ作家論も書いてみたい。従って、内容の知らない本書「病院坂の首縊りの家」を読んでみることにする。何と言っても題名が良い。「病院坂」と「首縊りの家」が巧妙に組み合わさっている。病的なイメージをもたらす「病院」と「坂」との組み合わせ。そして家が首を縊ったと錯覚させる「首縊りの家」とは上手すぎる。ああ、写真屋か。写真屋と言えば、男女の赤裸々な姿を映した乾板を巡る恐喝によって起きた殺人事件を思い出す。江戸川乱歩の作品であったと思っていたが、横溝正史の作品であったのか。記憶が不鮮明なために分からない。

読んでみると文章はそこそこながら、記述内容が冗長すぎる。半分以下に圧縮できる。でも読み飛ばすことができるのは幸いである。結論から言うと、横溝正史は類いまれなエンターテイメントな作家である。凄惨な殺人事件は滑稽とも思われて、でも筋書き通りに話は進み、金田一耕助はたくさんの殺人を防げなくとも事件を解決する。そして読者を幸福に導くのである。まるで水戸黄門が大団円で終わるのと同じように、読者に多大な満足をもたらして生きる力を付与してくれる。たくさんの凄惨な殺人が行われながら、エンターテイメントの力とは恐ろしく生を肯定して、生きるための活力を注入してくれる。なんとも言えない奇妙な死と生の構図である。でも、これが真実な感想である。ただ、定めた筋書き通りに物語を進ませるためか、微妙に筋や心理に狂いが生じている。狂いが生じてもものともしない、本書にある説得力こそが不思議である。これこそが文章の力なのか良く分からないが、何とも言えず展開や謎解きを楽しんで結末では安堵し納得できる、まさにエンターテイメントに読むことができる探偵・怪奇本なのである。

どう作品内容を示したらよいのか。上巻の裏表紙の紹介文を引用して示したい。『その昔、薄幸の女性が首を縊った忌まわしき旧法眼邸。明治から戦前まで隆盛を極め、“病院坂”という地名にもなった大病院の屋敷跡であった・・。本條写真館の息子直吉は、ある晩そこで奇妙な結婚記念写真の撮影を依頼された。住む人もない廃屋での撮影は、何やら不吉な出来事を暗示しているようであった。数日後、再び屋敷を訪れた直吉は、そこに鮮血を滴らせ風鈴の如くぶら下がった男の生首を発見するが・・!?』風鈴と生首、そして呪いの詩集に、現在も送られてくる脅迫文は、過去に生じた悲惨さ出来事が現在も活力を保持していて殺人が起こることを予告している。そして金田一耕助の巧妙な探偵作業にも拘わらず、忌まわしい殺人が次からへと起こるのである。この詳細は述べないことにする。

後は本書を読んで疑問を感じた筋に、若干の感想などを記述したい。筋が明らかになることもあるので、本書を読んで楽しみたいと思う人は以降読まないことを勧める。なお、飛ばし飛ばしに読んでいたので誤解があればご容赦願いたい。


1) まず、第一に大きな疑問は由香利と小雪のあまりにも似かよった容貌である。夫も分からない位であるなら、一卵性双生児を思い浮かべていたが、そうではなかった。同一人物を想定して読んでいたが、空間的配置に無理が生じてくる。そして、本書では彼女たちは叔母と姪の関係にあることが、二人の人物の瓜二つの根拠としている。由香利は本書の影の主役でもある弥生の若き日の淫乱な行為の結果生まれた子供ではなかったのである。でも、それでは、一卵性双生児と同等な容貌には成り得るはずがない。
2) 弥生はなぜ乾板の処分を早期に行わなかったのか。写真屋に相応の金を渡してすぐに処分できたはずなのに、自らの淫乱さを証明する乾板をなぜ残したままにしていたのか。写真屋に死体の処理を任せるくらいであるから、直ぐにできた関係のはずである。それを行わずそのままにしておいたのは理解し難い。

3) 犯人はなぜ殺人を行ったのか。妻の淫乱さを知っていて自らの子でない可能性も十分考えられるのに、自らの子と知ったからと言って複数の殺人を行う根拠とはなりにくい。

4) 美穂は愛する人と初めての契りを交わしたのに、なぜ別の男をホテルに誘うのか。心理的な根拠がない。愛する人と添い遂げたい思いを持っているからには不可解である。おまけに愛する人と泊まったホテルに落書きして、証拠として残していたなんて都合がよすぎる。この落書きは別の日に書いた可能性もあり、初め偽のアリバイと疑ってもいたのが、なんとも気の回し過ぎであった。

5) 最後の独白によって謎解きが行われるのは常套手段であるが、なんとも言えず心に迫ってくる。そして、弥生が死んで変わり果てた姿には感心する。淫乱さがおぞましくて罪の意識に苛まれる著者の倫理観は誰にも受け入れられるだろう。
6) 風鈴と詩集が首縊りの、首のぶら下がったイメージに重なっていてとても良い。だが、サムスンとデリラを小雪と敏男にイメージを重ねるのはあまり関係性がない。小雪と敏男は敏夫の女癖の悪さがあるが、相思相愛の仲に近くて、サムスンとデリラのように欺き欺かれる敵対性はないのである。

7) 戦中の爆撃と戦後の風物詩が根底を流れている。経済的な勃興と退廃も流れていて作品にある種の質を与えている。バンドも良いが構成員の役割がいまいち分かりにくい。
8) 金田一耕助の最後の事件簿というより等々力元警部が主役にも思われる。いずれにせよ、金田一耕助に関する殺人事件はすべて解決して、彼は意を決しアメリカに旅立つのである。

最後に、横溝正史の作家論を書くのは取りやめにしたい。なぜなら、他の作品を読む気力が湧き上がって来ない。テレビなどで映像を楽しむのが一番良いかもしれない。ただ、小説のエンターテインメント性については堪能することができた。小説とは昔からエンターテインメント性を持っていて、読者に読む楽しみを与えてきたのである。それが細やかな心理描写が加わって、ダイナミズムが失われスタテックな哀愁に満ちた心理小説が増えてきた気もする。こうした小説のダイナミズム性とスタテック性とを絡めた筋と心理の関係については別の機会に考察したい。

以上

この記事が参加している募集

読書感想文

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。