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ハインリヒ・v・クライスト著 山下純照訳「こわれがめ」と種村季弘訳「チリの地震」を読んで

「ドゥルーズ 千の文学」で大宮勘一郎は「クライスト 群の民主制」と題し、ハインリヒ・v・クライストについて記述している。ただ、読んだ作品名は「チリの地震」が辛うじて記されているだけで、なぜ「群の民主制」なのかは良く分からない。「ドゥルーズ 千の文学」では、四十人を超える各作家について論評されているが、主要著作物名や論旨不明確な論評は初めてである。記述内容が「群の民主制」―あるいは戦争機械=国家に、「状態の知」、「不滅と少女たち」と題しているが、「こわれがめ」、「チリの地震」に該当する内容ではない。こうした齟齬も初めてである。無論、私が読んだ作品がクライストの主要著作物でない可能性はある。仕方がないので、思うままに感想を書いてみる。ただ、「チリの地震」では地震の最中登場してくる群衆が行動を起こしている。この暴動とも言える行動が多少なりとも「群の民主制」に関係しているのだろうか。良く分からない。 

何時もは、自らの感想を書いた後に、「ドゥルーズ 千の文学」の短論文を、時々簡単に紹介していただけであり、感想文自体にそれほど変わりはないはずである。さて、「ドゥルーズ 千の文学」に紹介されている、正確に言うと、四十四名のうち読んでいないのは三名となった。ただ、一名は図書館にも古本屋にもネットにもなかったので読むことができない。無論、この「ドゥルーズ 千の文学」に紹介されている作家も作品の重要度の高い順からグループごとに並べて紹介することができる。ただ、ドゥルーズの哲学的概念との関係性まで含めて記述するなら、ドゥルーズの哲学本を読み直さなければならず、無理であろう。それにしても紹介されていた作家は楽しく読める作品が多かった。もはや、重要度の観点からの感想文は必要ない。各作家の作品を読めば、自ずとどの作家に注目すべきか分かってくるはずなのである。 

さて、「こわれがめ」は戯曲であり、「チリの地震」は短編集の題名であると同時に、一つの短編作品名でもある。「こわれがめ」は裁判官アーダムによる夜這いの話である。娘エーフェに抵抗され慌てて逃げ出し甕を壊してしまう。エーフェの母親マルテは裁判で甕の弁償を要求する。裁判官アーダムによる裁判では、甕を壊した犯人は不明ではない、恋人とも言える若い農夫ループレヒトである。ループレヒトはその時エーフェの元に出掛けていて部屋の中の事情を良く知っている。都合よく司法顧問官ヴァルターも各村回りの最中であり、この裁判に参加している。最初夜這いを否定していた裁判官アーダムは種々の事実が明らかになるにつれて、次第に追い詰められていく。ループレヒトを犯人と宣告するが、逆に自らが犯人と断定され、結局裁判官自身が裁判を放棄せざるを得なくなる、逃げ出してしまうのである。兵士として徴集されていたループレヒトの出兵はアーダムが脅していた諸外国ではない、歩哨程度の軽い役目と場所になりそうである。 

「こわれがめ」は心理描写の妙に尽きる。たぶん喜劇である。たぶんという言葉を使うのは、司法顧問官ヴァルターの裁判官アーダムへの処置が甘いためで、喜劇的性格を損なっている。裁判官への復帰さえあり得るかもしれない。鞭打ち数十回であれば完全に喜劇と言えるであろう。心理は各人の事情に応じて、分かりやすい言葉で簡単にかつ明瞭に記述されている。夜這いされた事情を明らかにしたくないエーフェの乙女心、心配するループレヒト、裁判官アーダムの反対論理による言い逃れ、司法顧問官ヴァルターの正当な裁判とアーダムへの温情などがある。これらの心理が、アーダムへの温情を除いて手際良く描かれて分かりやすい。1805年に完成をみたこの「こわれがめ」は、山下純照の解説では、アーダムがアダム、エーフェがイブなどに通じていて、またハインリヒ・v・クライスト自身が削除した序文で、ソホクレスの「オイディプス王」に言及するなど、さまざまの歴史物の引用と応用を行い記述されているらしい。また、近年、本作品を改定して上演されたようでもある。詳細を知りたければ、山下純照の解説を参考にしていただきたい。

 一方「チリの地震」では荘厳な文章である。「こわれがめ」の同じ作者とは思えない、重々しさと華麗さがある。大胆さと細密さが同居している文章である。どうも「こわれがめ」が数少ない喜劇的な作品だったようである。「チリの地震」では、八作品がある。何篇かあら筋を紹介したい。「チリの地震」では、ジェロニモ修道士の首吊り死刑が行おうとされていた時、地震が生じてジェロニモの命は助かる。彼はジョゼフェ修道士が陣痛に襲われて倒れた、その原因を生み出した犯人とされたのである。尼僧院長は不埒な彼を許すわけにはいかなかった。ジェロニモはもはや家族持ちとなっている。 

避難先で、ジェロニモ一家は品位あるフェルナンド家族に手厚い世話を受け感謝する。そして、誘われるままに躊躇うことなく教会の祝典に出掛けたのである。ただ、尼僧院で冒涜行為に及んだ者を聴衆が見出すと許すわけにはいかなかった。聴衆はジェロニモ家族に襲いかかる。ジェロニモは一撃のもとに打ち倒される。我が子を助けるためにジョゼフはフェルナンドに子供を渡す。そして彼女は敢えて群衆の中に身を投じるのである。忽ちに棍棒で打ち殺される。フェルナンドは渡された子共たちを群衆に奪われてしまう。子供たちは脳みそを流して死んでしまう。フェルナンドはいいしれない痛みをこらえ、天に向かって顔を上げる。後日、フェルナンド夫妻は他家の子を養子に迎え、自分たちの子供のように育てて喜びを感じている。 

「聖ドミンゴ塔の婚約」のあらすじはこうである。聖ドミンゴ島では黒人たちが白人を皆殺しにした。その時の農園には、主人なるヴィルヌール殿から数々の恩恵を受けた黒人コンゴ・ホアンゴがいた。彼は航海時に主人の一命を救い厚遇されていたのである。ただ、ホアンゴはこの植民地に対するフランス議会の勇み足に憤怒を感じていて、結局暴動を起こしたのである。主人ヴィルヌール殿の頭蓋に銃弾を撃ち込んだ者の一人となった。そして黒人たちを率いて略奪を行い館に火を放つ。植民者たちを見境なく殺して農園を自分のものにした。十五歳の若き混血娘トーニも兵隊としたのである。その後、彼は街道の一軒家に住んでいる。トーニや老女たちも一緒である。ホアンゴは街道を歩いて行く者が食べ物や宿を求めて立ち寄ると、止めて置くように言いつけている。ある時ホアンゴが居ない時、フランス将軍と名乗る外国人が立ち寄る。この外国人は泊まることになる。トーニは彼の足を注ぐ湯や食事を運ぶなど親切に扱う。男はトーニに結婚しているかと尋ねるなど、彼女と優しく会話をする。男がトーニの耳元に贔屓に与かりたいと囁くと、彼女は魅力をたたえて恥じらい、彼の胸に身を寄せる。彼は昔の彼女が身代わりに斬首刑となった話をすると、少女トーニは涙を流して聞いている。 

もはや分かり切ったことだ。彼らは涙と高揚とした行為とが互いの体を混じり合わせる。その後、外国人はベッドの端で泣いている少女の首に金の十字架を掛けて、花嫁となるべき贈り物とする。母親には結婚の申し込みをするつもりでいる。母なる老女は、この家が人殺しの家であり外国人がばらすと言っていたのを知っている。白人をかくまったり庇ったりした黒人は処刑に処すると言明されていたため、老女は食事に毒を盛る予定であった。でも、少女の話を聞いて毒入りミルクを窓の外に捨てる。外国人は家族を迎えるつもりの手紙を老女に渡す。少女は夫となるべき人の家族が殺されるのを恐れて、少年を介して老女が仕舞っていた手紙を老首長に渡し、家族の安全を図ろうとする。そして夜中に祈りと情熱をもって外国人の部屋に忍んで行くのである。ただ、ヨーロッパに行きたいという願いではなく、彼をこの家に誘い込んだ意図を悔いて打ち明けようとする。 

その時、黒人コンゴ・ホアンゴの声が聞こえてくる。彼女はとっさに外国人を縄で縛る。彼を救い出すために演技するのである。母親は怖れのためか娘を裏切り者としてホアンゴに告げる。娘は外国人を縛ったのは逃がさないためとホアンゴに告げる。ホアンゴは狙撃兵たちに外国人を処刑させようとする。少年の案内を受け老首長シュトリーム氏と夫人に息子たちがやってくる。シュトリーム氏たちはホアンゴを殺そうとする。彼らに戦いが生じて哀れにも二人の死者がでる。結局ホアンゴが黒人たちに騒ぐなと命令し、シュトリーム氏は養殖地に着いて、この分かり切った二人の死体のために墓を掘る。それぞれの手にはめていた指輪を交換して平和の住まいへと降ろしてやったのである。 

「チリの地震」では荘厳な文章ばかりではない、内容も暴力と残酷さに満ちていてその背景に通常の人間が感じる心理を染み込ませてある。つまり、大宮勘一郎が「クライスト 群の民主制」と題し、ハインリヒ・v・クライストについて、「群の民主制」―あるいは戦争機械=国家に、「状態の知」、「不滅と少女たち」と題している、そのささやかな言葉の理解ができないこともない。「群の民主制」は「チリの地震」における聴衆の残酷さ、そして「聖ドミンゴ塔の婚約」では黒人たちによる暴動が合致する。つまり民主制とは成り立たずに、暴挙、暴動が支配する体制となるのである。「状態の知」は、この暴挙、暴動状態を含めた状況に生み出される知性である。「チリの地震」では自らの子共を助けるために、群衆の中に身を投じる女、「聖ドミンゴ塔の婚約」ではとっさに外国人を縄で縛り救い出そうとする少女の知性である。「不滅と少女たち」は「チリの地震」では葬られる女、「聖ドミンゴ塔の婚約」では結婚する少女である。そして、不滅とは死を意味する。死んで永遠に不滅となるのである。ただ、きっとこれらはこじつけた解釈であり、私のクライストの作品の読書量が徹底的に不足しているのである。 

さて、ハインリヒ・v・クライストの特徴は文章にある。「こわれがめ」の戯曲では整合性を保っていた会話であったが、「チリの地震」では先に述べたように荘厳な文章で、重々しさと華麗さがある。大胆さと細密さが同居している文章である。そして訳文のためか、それとも原文でも同じであるのか、三人称代名詞が異なって状況や心理がかみ合わない状況がある。「聖ドミンゴ塔の婚約」でこの状況が顕著である。少女トーニの母親は娘を愛していて娘の恋人に毒を飲ませず殺そうとしない。でも、愛する娘を怖れのためか裏切り者としてホアンゴに告げるのである。この娘の婚約者は、彼であり、男であり、外国人であり時に応じて異なってくる。老首長シュトリーム氏に外国人の家族へ手紙を渡さなければならないのに、老首長シュトリーム氏自身と夫人に息子たちがやってくるのである。「チリの地震」では、不埒にも尼僧に手を付けたジェロニモ修道士は一挙に子を持つ家族となっている。こうした私の読みは些細なことで、圧倒する文章が生きる者たちの状況を支配し生と死の淵に即座に投げ込むことこそが恐ろしい。 

再度言うが、記述上の齟齬でも真実な欠陥であっても、これらをものともしない圧倒的に迫力ある文章力を持っていて、読者を物語の中に引き擦り込むのである。これは前回のヴィトルド・ゴンブロヴィッチの文章にも言えるが、ただ、クライストはゴンブロヴィッチ以上に圧倒的に迫力がある。圧倒される文章力と静謐で淡々とした文章に、出来事のみを伝える散文のどれが良いかなどと問うまい。きっとどれもが良いのであろう。作品の評価は文章の質そのものにあると同時に、生命の渕を描くことにある。生命の渕とは何気ない日常生活にも含まれている。また、生命の渕とは心理の渕ともなる。 

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。