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題:大岡昇平著 「武蔵野夫人」を読んで

大岡昇平は初めて読む。エロチックな小説だと思っていたが、確かに恋愛・不倫を描いているけれど、エロチックな場面は無くて心理小説である、むしろ観念小説であるかもしれない。結論から述べると、文章のぎこちない部分が多数あり、心理描写が曖昧で説明的であり自然描写も関心を引かない。また出来事の推移も作為的であり、野心作でありながら失敗作であると思っていたが、後半にかけては妙に引き付けて読ませる。もしかしたら失敗作ではない、と言って成功作でもない、ある種の佳作であるのかもしれない。ただ、夏目漱石の意識の流れなる心理描写に比較すると、やはり劣る。心理小説としては説明的であり失敗しているけれども、漱石が葛藤の内に生きるのに対して、大岡昇平は人間的諸関係をダイナミックに生きてかつ自然に創造し破壊できる強さを秘めている。この強さは太宰治などと同じニヒリズムに陥ると言うより、大岡昇平の他の著書を読まなければ分からないが、生きる力・生命力に強く結びついていると推測される。

本書のあらすじを述べると以下のようなものである。最初に「武蔵野夫人」小説の関連地図として、中央線の武蔵小金井から青梅線、それに多摩湖鉄道に狭山丘陵が貯水池などが図示されている。無論、本小説で記述される地域である。そして、国分寺駅から離れた小川の領域の丘陵が「はけ」と呼ばれて、そこに住む人々が主人公である。秋山道子と夫の忠雄、それに大野富子と夫の英治に、復員兵の若き勉が主人公であるが、武蔵野夫人とは道子と富子を指している。二人は対照的な性格である。富子は奔方で多数の男性と関係を持つことができる。一方道子は古風で夫との間も上手くいっていないけれど、愛する勉とも関係を持つことができない。

こうして物語は進み、富子は言い寄る道子の夫のフランス語教師の秋山と関係を持つ。道子は偶然勉と二人きりの夜を過ごすけれども、わずかに抵抗する。このため勉は関係を持つことを諦め、互いに将来に向けての愛の誓いを立てる。こうした諸般の理由により勉は「はけ」を離れて一人暮らしを始める。そうして彼らに経済的な問題が生じてくる。富子の夫なる大野の経営が行き詰まり、道子の財産の一部を譲り受けた秋山が大野に融通する。道子の財産も貸し出される。こうした落ちぶれた状況に、富子は娘の雪子とともに大野から逃げ出す算段をする。だが、姉に断られ、富子に執着する秋山と一緒に都内の旅館に逃れる。秋山は既に道子に離婚を主張しているのである。

道子は二人の関係を知っており、残された土地の権利書とその書き換え委任状も、もはや持ち出されている。愛する勉に財産を残すためには、土地が売られる前に死ななければならない。遺言状にて権利の一部(2/3)を好きな者に与えることができる、それ以外手立ては無いのである。こうして道子は薬を飲み自殺を図る。もはや酒に酔い盛りのついた雌犬になっている富子に逃げられ、家に戻って来た秋山は、勉の名をうわごとに呼び続ける道子を見る。そして、道子は死ぬ。富子は勉の部屋に行き関係を持つ。この部屋に大野がやって来て不貞の妻を引き取ると同時に、道子の死を勉に知らせるのである。

筋書きは幾分おおまかに書いたためか理解しにくい点もあるが、ここで良い点と悪い点を箇条書きにて示したい。続けて書くと長文になるためである。

『悪い点』
1) 心理描写が多視点的でかつ説明的である箇所が多くて、分かるためには時間を要する。その心理についても拵え物である、作られた心理であることもある。例を示したいが、たくさんあるので止める。
2) 「恋ケ窪」の恋の文字によって、道子が明確に勉に対する恋を認識するも拵え物である。ある種の別な場所、品物、視線や行為にした方が納得しやすい。

3) 道子と勉が風雨の高まりによって否応なくホテルに一泊するが、接吻はするけれども、道子が体を開いていくけれども、物音がして、「いけません」という道子の魂の声を聞いたような気がして、勉が行為を中止すること。漱石の「行人」の同じ場面と比較すると、「行人」は行為を行わないことが自然であるが、この場合行為を持たないことこそが不自然である。なぜなら、勉は女子学生などと多数の関係を持っていたのである。そして「はけ」に来て道子と一緒に住むようになって、恋と同時に抑えられない欲望を自覚している。道子も行為そのものを認めている。これは心理や筋を重視した結果であろう。そもそも勉なる復員兵の性格が曖昧に記述しているために起因している。
4) 土地の権利書と委任状を奪われ、勉に財産を残すために、道子が決断すること。そういった理由で自殺を決断することもありうるとは思われるけれども、なにかしらの絶望や失意、例えば勉への愛の絶望のために自殺する方が納得しやすい。そもそも、道子は夫の秋山が戻れば夫婦として暮らしても良いとも思っているのである。こうした交錯し混乱した心理を無理なく自然に記述するには、相当の力量を作家に要求する。

5) 極端に言うと、総じて登場人物が機械的で生きていない。これは道子と富子はわりと良く描かれているけれど、彼女たちの本心・本質が活き活きと見えてこないために起因する。作者の意図に従って彼女たちは心理と行動を対照的に描かれ、即ち放蕩性と貞淑性以外の心の内が見えてこないためである。微妙な女たちの心理は作者の観念の元に上書きされている。彼女たちは小説の登場人物として、ただ筋書き通りに生きているのである。

『良い点』
1) 道徳なる観念が個人的に、もしくは共同体として保持可能であるかどうか。更にその道徳の破壊の結果、何がもたらせるかに思いを馳せらせる小説として読める。
2) 道子は薬を飲んだ後、生命力を取り戻すと思わせながら、結局死なせたこと。これは良く分からないけれども、残忍さ以上に、ある種の生命に関する意味が含まれていると思われる。
3) もはや奔放に狂気に陥っている富子を夫なる大野に引き取らされている点、もしや狂気は治まるのか。更に道子の死を知った勉が一種の怪物になると大野が感じている点である。たぶん、怪物とは単に性に溺れるのではない、ある種の道徳や価値の破壊を含んでいると思われる。

最後に、こうして記述してみると、本書は佳作の域を超えていないと思われる。けれども、大岡昇平なる作家は質が高い、別の作品も読んでみたい気にさせる。全くの別の小説になるが、心理小説としての「明暗」は優れている、その結末が記述されていないことが惜しまれる。大岡昇平を知るためには、やはり「野火」を読まなければならないのかもしれない。でも「野火」はもう読んでいて、破壊できない倫理性を描いている。「武蔵野夫人」と同様に、どこか、幾分嘘くさい小説である。きっと現実を踏みながら描写するその小説は迫真する真実性を含ませながら、どこか作り話なのである。

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。